ハンセン病元患者・藤田三四郎さん死去 戦後の壮絶な差別に耐え

2020年3月17日 02時00分

差別の歴史などを語る藤田さん=昨年12月11日、草津町で

 草津町の国立ハンセン病療養所「栗生(くりう)楽泉園」で、計三十年以上にわたって入所者自治会長を務めた藤田三四郎さんが九十四歳で亡くなり、元患者からは惜しむ声が上がった。戦後の根深い差別を耐え忍び、自治会長としては皆に慕われた人生だった。
 「何人もの仲間が同時に亡くなったような思い。まじめで一生懸命な会長だった。自治会運営の相談相手がいなくなり、どうしたらいいのか」。副会長として藤田さんを支えた元患者、岸従一(よりいち)さん(80)は言葉を詰まらせた。
 茨城県生まれの藤田さんは十九歳でハンセン病と診断された。「首でも吊(つ)って死んじゃったほうがいいんじゃないかって、やったけどね、ベッドで。二、三回やったけど、死にきれなかったね」。藤田さんは入所者証言集でこう告白した。
 藤田さんは終戦間際、当時の厳しい差別の中で「患者護送中」と他の乗客に掲示された汽車に乗せられて楽泉園へ入所。その後はまきに使う重い炭を背負って急な谷を登る強制労働や、亡くなった患者たちを火葬する当番などをやらされ、苦難の日々を耐え続けた。
 記者が藤田さんに出会ったのは、二〇〇九年に藤田さんらが参加した入所者証言集が出版された際だ。その後も楽泉園に取材で通ううち、結婚した経験があっても差別のために子どもを持てなかった藤田さんが子ども好きと知った。
 一五年、子どもたちを自室に招き入れ、趣味の俳句を披露する様子を取材をする機会があった。「古里へ 夢の実現 セミ時雨」。この句は藤田さんが夏に故郷の茨城県を訪問した後に詠んだという。
 藤田さんは根深い差別のために病気が治っても簡単には故郷の地を踏めない心境を、俳句を通じて子どもたちに優しく教えた。「子どもたちと触れ合うと気持ちが明るくなり、楽しい」と笑みを浮かべた藤田さんが印象に残っている。
 そんな藤田さんも、差別の歴史を講演会などで振り返る際は厳しい表情を見せた。一六年に前橋市であった講演では、戦後に患者たちを裁判所ではなく強制隔離された療養所で裁いた「特別法廷」に触れた。
 藤田さんは「特別法廷は憲法(にある公開裁判の原則)に違反したと思っている。患者をきちんと人間として扱って裁判するべきだった。国(と裁判所)は人権を無視した」と手厳しく批判した。
 ただ、この講演では、来場者にこうも語り掛けた。「全ての人は偏見と差別の心を持っている。それでも、自分を愛するように他人を万分の一でもいいから愛してほしい」。壮絶な差別を耐えたからこそ達観し、生まれた言葉だった。 (菅原洋)

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