日本の五輪初メダルが行方不明 アントワープ大会で熊谷の「銀」 

2020年8月22日 13時50分
 日本の五輪第1号メダル、1920年8月のアントワープ五輪テニス男子シングルスで熊谷一弥が獲得した「銀」が紛失したまま行方不明であることが分かった。23日はアントワープ大会で熊谷が銀メダルを決めた決勝から100年に当たる。

秩父宮記念スポーツ博物館所蔵のアントワープ五輪の銀メダル。熊谷一弥が獲得し、日本の五輪第1号メダルと言われてきた


 ベルギーで行われたアントワープ五輪で熊谷は、シングルス決勝の翌日のダブルス決勝でも柏尾誠一郎と組んで準優勝。熊谷2個、柏尾1個の銀メダルを手にした。
 そのうちの1個を熊谷氏らから寄贈された秩父宮記念スポーツ博物館が、歴史的メダルとして「日本初のメダル・銀(熊谷一弥・テニス)」と表示してきた。
 ところが、将来のテニス博物館構想を持つ日本テニス協会の問い合わせを受け、同博物館が来歴を調べた結果、第1号メダルと断定するのは難しく、ダブルスでの銀メダルの可能性が高いと判断。このほど「日本初のメダル・銀(熊谷一弥・柏尾誠一郎 男子テニスダブルス)」と変え、ホームページ上で表示した。

1920年アントワープ五輪のテニス男子シングルスとダブルスで2位になり、日本選手初のメダルを獲得した熊谷一弥(中央)


 同博物館の調査では、メダルは66年に熊谷、柏尾英三郎(誠一郎弟)の両氏から寄贈された。熊谷氏宛て受領書には「第七回オリンピック大会入賞メダル(銀メダル)のご寄贈」と書いてあるものの、英三郎氏には「熊谷一弥氏をとおして銀メダルの寄贈をいただき」と謝意が記され、熊谷氏のメダルと明確に言い切れないことが分かった。
 さらにメダルの行方が記された64年1月5日付の都内紙が見つかった。それによれば、熊谷氏の2個のメダルは「一つはアントワープから日本に送る途中で紛失、一つは戦後人に貸したきり戻ってこなかった」とあった。柏尾氏のメダルも一時不明だったが、62年に亡くなった同氏の1周忌に大阪の実家で見つかり、熊谷氏の手に渡った、と記されていた。
 当事者や当時の関係者は亡くなったため、断定は困難だが、同博物館は柏尾氏の実家で見つかったメダルを熊谷、柏尾英三郎氏が寄贈した可能性が高いとみている。
 熊谷氏の子息、一夫氏(92)は日本テニス協会を通して「父は人に貸して返ってこなくなったと嘆いていた」と話した。

◆五輪は三菱銀行部からの出張

 直径6センチほどの日本初のメダルを巡るミステリー。熊谷氏の「当時はオリンピックと言っても大騒ぎしなかった」との発言が残り、歴史的に重要との認識が薄かった可能性はある。
 福岡県出身の熊谷氏は1917年、三菱合資会社銀行部(現三菱UFJ銀行)入社直後にニューヨーク支店に転勤した。日本移民排斥の「黄禍論」対策に、スポーツでの融和を図る財界の求めで慶応大時代に米国遠征して人気を集めた熊谷氏に白羽の矢が立った。19年には全米3位になった。

1920年のアントワープ五輪テニスの男子シングルスを戦う熊谷一弥(手前)(日本テニス協会テニスミュージアム委員会提供)


 アントワープ五輪は、派遣元の大日本体育協会(現日本スポーツ協会)が政府から補助金支出を拒まれ、熊谷氏は三菱から出張の名目で費用を支給された。
 第二次大戦中はシンガポールに。長女の和子さん(故人)に聞き取りをした日本テニス協会によれば、阿波丸で帰国予定だった。同船は45年、捕虜への救援物資を運び安全を保証されたが、シンガポールからの帰路に米潜水艦の攻撃を受け、約2000人の乗員と乗客がほぼ全員死亡した。和子さんは、テニスの縁で一席空いた軍用機に乗れた、と語っている。44年に帰国との資料もあるが、証言に従えば奇跡的強運の人といえる。

◆シングルスのメダルが日本第1号

 真田久筑波大教授(五輪史)の話 熊谷のメダルが行方不明になっていることは初めて知った。厳密に言えば、熊谷のシングルスのメダルが日本の第1号。広い意味ではダブルスの銀も匹敵するとは言えても本当はシングルスです。

 アントワープ五輪 1920年8月14日に開会式を行い、29カ国が参加した。スペイン風邪の流行は終息していなかったが、第1次大戦で大被害を受けたベルギーへの贈り物として国際オリンピック委員会(IOC)が決定。IOCは、新型コロナウイルス感染症が終息しない現状と当時が似ていることを踏まえ、100年に当たる14日、アントワープ大会を団結と復興の象徴と位置付けた。

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