<ブルボン小林 月刊マンガホニャララ> (16)今年の五輪はこれで足りる

2020年8月24日 07時52分
 コンビニでコーラを買うと、パッケージに五輪のエンブレムが小さく記されていた。本当なら、それを手に今夏は大勢が盛り上がったのかもしれない。
 五輪は中止でなく(今のところ)延期だそうだが、コーラに小さくそれ(公式スポンサーの証(あかし)であるエンブレム)を印刷することを延期はできなかった。複雑な気持ちで飲む。
 来年開催されるとしても、コロナや自粛などなかった体で素朴に盛り上がる気持ちに、なれるだろうか。我々(われわれ)は目にみえる、もしくは感じ取れる被害と別個に(倒産したり、家族を失った人以外も)もう、傷ついている。大企業の、商品だってそう。「コーラ」は何事もなかったように、またエンブレムを身に着け、サワヤカに振舞(ふるま)わなければならないのだ。

大橋裕之『ニューオリンピック』 *全1巻。8月発行。カンゼン。

 大橋裕之『ニューオリンピック』は、いい。このコロナ禍に活(い)き活(い)きしている。わざわざ繰り返すが「このコロナ禍」に「活き活き」しているなんて稀有(けう)かつ、不遜なことだ!
 スポーツ雑誌に連載された短編をまとめて、東京五輪の開催年の、開催月にあわせて刊行した、もろに五輪に「当て込んだ」企画モノである。毎年、大河ドラマの初回にあわせその主人公の伝記本が乱発されるのと同じ、便乗本と言っていい。題には堂々とオリンピックと謳(うた)っているが、中身は全然五輪じゃない。
 一話目は(サッカー日本代表の)カガワが主人公。カガワはまだいい。今年の東京五輪に出てたかもしらん。だが、キングカズや、とっくに引退した谷亮子さん、将棋の藤井聡太二冠にZOZOの元社長まで登場し、ワチャワチャやり始める。

なぜかキレッキレの格闘をみせる「藤井くん」。最小限の描線で、すごい似てる!(大橋裕之『ニューオリンピック』から)

 描かれるのはスポーツに興味のない人の頭の中の、テレビなどでわずかに知っているカガワ(や藤井二冠)像だ。作者は選手や競技の実像に少しも肉薄せず、我々の脳にある浅いイメージをくすぐり続ける。いいかげんだが、裏を返せばとても優しい。浅い理解の人も等しく分かり、楽しめる。五輪は参加することに意義があるというが、今作はその精神にある意味正しくかなっているといえよう。
 岐阜在住の「オリンピックに潜む魔物」のおじさんに取材するとか、世界中のメダルをテレポーテーションで集める金メダルフェチの男など、およそ五輪精神から程遠いギャグが異様な画力で綴(つづ)られ続け、最後は記憶喪失の柔道家と年寄りの邂逅(かいこう)にうっかりすると泣かされてしまう。今年の五輪はこれで足りる。というか、ミーハーな浅いイメージで「繋(つな)がれる」ことが、傷ついた我々をおおいに慰撫(いぶ)するだろう。
 もう一作、岡田索雲(さくも)『メイコの遊び場』も、コロナ禍で他者に「会えない」心に、妙に染みる。

岡田索雲『メイコの遊び場』 *全3巻。最終巻は6月発行。双葉社。

 万博後の一九七三年の大阪が舞台。空き地で様々(さまざま)な工夫をして遊ぶ子供らの中に眼帯の少女が混じっている。人を発狂させる瞳を持つ無口な少女が、夜は裏稼業の大人のために残酷な仕事を淡々とこなし、昼は空き地で遊びを「眺める」(子供らと少女の繋がりはかすかだ)。
 漫画は「ページをめくる」ことが面白みに深く関わるが、今作ではめくると即、人が発狂する「仕掛け」がとてもうまい。(めくることで)読者がそうしたような背徳感がある。孤独な少女と読者は共犯となり、安直な感動とはまるで別の「繋がり」を持てる。ノスタルジーに満ちた絵柄にも救われる。
 (ぶるぼん・こばやし=コラムニスト)

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