女子の教育機会向上へ 党派を超え改革をリードしたミンク
2020年8月26日 13時50分
◇七転び八起き パツィー・ミンクの闘い(4)
「大学に行きたかったが授業料を稼ぐために働かないといけない。トップスイマーとしてスポンサー契約すれば、アマチュアの試合に出られない。水泳を続ける選択肢はなかった」
17歳で出場した1964年の東京五輪競泳女子で2つの金メダルを獲得しながら引退を余儀なくされたドナ・デバロナ(73)は、その後、民間の立場からパツィー・タケモト・ミンクが取り組んだ教育機関に性差別を禁じる法律「タイトル・ナイン」の成立(1972年)を後押しした。
学校側、特に当時は男子リーグのみだった全米大学体育協会(NCAA)は慌てた。パツィーの娘グウェンドリン(68)は「ある有名私大を卒業した男性は『もし女子を入学させたら、卒業後(就職が困難なため)、学生のために資金集めができないじゃないか』と言っていた。そうしたばかげた議論があちこちで交わされていた」と振り返る。
デバロナは法律の人種差別解消に向けた役割も重視していた。「五輪代表チームで、仲良しだった黒人女性のアスリートが差別を受けていた。女子にも奨学金を支給することで教育面から差別を解消できると考えた」(デバロナ)
法律は成立後も連邦議会で猛烈な巻き返しに遭う。「対象から学生スポーツを外すよう求める修正条項が半年に一度のペースで提出されては否決する『もぐらたたきゲーム』が続いた」(グウェンドリン)という。
法律により、学問分野の女性進出も飛躍的に向上した。米教育省によると、72年度に医学士号を取得した男性は9388人で女性は919人と1割にすぎなかった。それが2015年度は男性9852人で、女性は8557人まで増えた。弁護士になるための法務博士号の女性取得者も同様に伸び、米メディアによると両分野の学生数は16年度、女性が男性を上回った。
民主党きってのリベラル派であるミンクは議会で長年、共和党と激しく論争を繰り返してきた。同時に教育問題の専門家として、時には党派を超えて、教育改革をリードした。
1990年、ミンクが10年以上ぶりに下院議員に復活した選挙で鼻っ柱の強い共和党の新人が当選、教育労働委員会に所属した。後に下院議長としてオバマ前大統領と激しく対立したジョン・ベイナーだ。
「パツィーがとことん戦おうとした時、私はいつも負けた。ただ私は討論から学び、10年たって今、なぜそれがパツィーにとって大切だったか理解できるようになった」。2002年、教育労働委員長になっていたベイナーはミンクの死を議場でこう悼んだ。
ミンクの元立法担当補佐官ティム・カーソン(42)によると、ベイナーはミンクの死去に接し「赤ん坊のように大泣きしていた」という。ミンクの死を受け、議会はタイトル・ナインを「パツィー・ミンク教育機会均等法」と改名した。=敬称略 (ワシントン・岩田仲弘)
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