史実を想像力で物語に 『日本蒙昧(もうまい)前史』 作家・磯崎憲一郎さん(55)

2020年8月30日 07時00分
 磯崎さん自ら「(少年・青年期の)最も切実な時代だった」と明かす「昭和最後の二十年間」を、虚構を交えて歴史の語り部のように流麗につづり、谷崎潤一郎賞に輝いた。大阪万国博覧会、日本初の五つ子誕生、グアム島の密林で二十八年潜伏した元日本兵の帰還など、同時代を生きた人間には印象深い出来事が、時空を行きつ戻りつしながら次々に登場する。
 事前に設計図をつくらず、冒頭の一文を決めて「場当たり的に書き進める」というデビュー以来、一貫した創作手法。「(作品が)出来上がった時に作者本人が驚いたり、予期しなかった世界に連れていってくれたりする。小説の構造に最もフィットしている」との思いが底流にある。
 今作も《幸福の只中にいる人間がけっしてそのことに気づかないのと同様、一国の歴史の中で、その国民がもっとも果報に恵まれていた時代も、知らぬ間に過ぎ去っている》という冒頭の一文を書いた時、「小説がぐっと立ち上がるような感触を得た」と振り返る。
 史実を「助走」にして想像力で物語の歯車を回転させる。大阪万博の際、「太陽の塔」の右目の中に立てこもった「目玉男」。作品の中では姉を交通事故で失い、車社会を嫌悪する男にしたが、資料調査で男の出身地、北海道旭川市が日本で初めて歩行者天国を導入した都市との史実を知り、驚いた。「小説の進む方向が肯定されたような気持ちになった」と明かす。アルゼンチンの作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスのエッセーの一節《いつわりの事実が本質的には真実であることもあるのだ》を、あらためてかみしめたという。
 大阪万博、五つ子誕生、元日本兵の帰還…。いずれも、日本中を熱狂させたとの一言で、美化して語られがちだが、これに異を唱える。「時間が経(た)つにつれて歴史上の事象が単純化、単色化されて語られていくことへの違和感、憤りが段々強くなってきた。そうした時間の持つ暴力性に抗(あらが)い、日本が今のようにおかしくなる前の時代を、ノスタルジーを排して、即物的に書いたつもりです」
 三井物産に勤務中の二〇〇九年、『終(つい)の住処(すみか)』で芥川賞受賞。一五年、広報部長を最後に退職、現在は東京工業大で文学を教える。
 「あの時代の不思議な空気が、もやっと立ち上がってきたような気が…。続きを書きたくなりました」
 文芸春秋・二三一〇円。 (安田信博)

関連キーワード

PR情報

書く人の最新ニュース

記事一覧