硫黄島での遺骨収集に参加 汗だくで見つけた「赤茶けた棒」<遺骨は語る・上>

2020年8月31日 14時00分
 東京都心からはるか1250キロ離れた南海の硫黄島。ここには戦後75年を経た今も、日本兵1万人の遺骨が地下に眠っている。この夏、遺骨収集の派遣団に加わり、2週間にわたって島に滞在した。本土防衛の盾となって壮絶な死を遂げた将兵たちの望郷の思いを背に遺骨を捜した。(編集委員・椎谷哲夫)

日本兵の遺骨を探すため、北側の壕で筆者(中央)も加わって大量の土を掘り出した。壕の内部は狭く地面が熱い=硫黄島で


◆元々の読みは「いおうとう」 かすかに漂う硫黄の臭い

埼玉県の航空自衛隊入間基地から輸送機で2時間半。7月末の硫黄島は日差しが強い。滑走路に降り立つと、かすかに硫黄の臭いがする。この下にも遺骨が眠っているのだろうか。そう思うと一瞬足が止まった。
 硫黄島は「いおうとう」である。元々、島民はそう呼んでいたが、大戦中に米軍が「Iwo jima(いおうじま)」と呼んだこともあり、戦後は行政もこれに倣った。2007年になって旧島民の要請を受けた国土地理院が「いおうとう」に変更。ただ、前年公開の米映画の邦題が「硫黄島からの手紙」だったから、今も「いおうじま」と呼ぶ人が少なくない。

◆映画登場の総指揮官、五輪金メダリストの遺骨も不明

 国内外の遺骨収集は、過去には遺族や戦友が自主的に行ったり、政府の公募で実施されたりしたこともあった。16年度からは厚生労働省指定の一般社団法人「日本戦没者遺骨収集推進協会」が各団体の協力を得て行っている。20年度は、東南アジアや南太平洋などの収集は新型コロナウイルスの影響でストップしている。硫黄島は例年同様に2週間ずつ4回計画され、初回は7月末から日本遺族会や硫黄島協会などのボランティアら約20人が参加した。
 硫黄島の戦いでは、軍属の島民を含む約2万人が戦死し、半数の約1万人の遺骨が残されたままだ。「硫黄島からの手紙」にも登場する総指揮官の栗林忠道中将や、「バロン西」の名で知られるロサンゼルス五輪馬術競技金メダリストの西竹一中佐の遺骨も見つかっていない。

◆メタンガスの濃度高く、アラーム鳴る現場

 収集現場の1つが、昨年の事前調査で遺骨の一部が確認されていた滑走路脇だ。深さ4メートル余の狭い縦穴で、いわゆる地下壕ではなさそうだ。敵を待ち伏せた塹壕だったのか、米軍が滑走路を造る際に遺体を埋めた自然の窪みだったのか。
 初日は初めての作業に戸惑った。朝7時半に集合し、「英霊に拝礼」の掛け声でヘルメットとマスクを外し、頭を垂れる。作業の前後にはこうして敬意を示す。陸上自衛隊がガス検知器で穴の内部を計測。メタンガス濃度が高く、いきなりアラームが鳴って驚いた。送風機で濃度を下げた後、穴の底へ。ヘッドライトで照らし、大小のくわを使って慎重に土をかき出す。これをバケツリレーで地上に運び出す。
 狭い穴の中だから、すぐに汗だくになる。しばらくすると、目の前に赤茶けた10数センチの棒のようなものが見えた。引き出そうとすると「待って」の声が掛かる。厚労省派遣の人類学博士である鑑定人が調べ、下腕の一部と分かった。目の前に現れた日本兵の遺骨に少し動揺しながら、目を閉じた。

硫黄島 東京都品川区とほぼ同じ面積約23平方キロ。本土空襲の中継地確保を狙う米軍と日本軍の間で1945年2~3月に戦闘。防衛省防衛研究所によると、日本軍は1万9900人が戦死し、生存者は約1000人のみ。米軍も約6800人が戦死した。戦後は米国が統治し、68年に返還。東京都小笠原村に編入された。現在は島全体が自衛隊の基地となり、元島民を含め民間人は自由に行き来できない。

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