ふだん着の寺田寅彦 池内了著

2020年9月6日 07時00分

◆人間らしい弱さを存分に
[評]瀧澤美奈子(科学ジャーナリスト)

 書かれる側にとって、これほど恐ろしい本はないかもしれない。
 「好きなもの 苺(いちご) コーヒー 花 美人 懐手して宇宙見物」。苺から宇宙見物へと、羽ばたくような発想が寺田寅彦らしく、よく知られている三十一文字だ。
 しかし、この本はさらに寺田の個人的な事実にせまる。苺には目がなく、クリームをかけ、砂糖をまぶして食べた。甘いもの好きで、歯は若くして総入れ歯。病気で胃腸を侵され、便にはたびたび血がまじったが、甘いものもコーヒーもタバコもやめられない。こんな調子で話が続く。
 寺田寅彦は、明治から昭和のはじめに活躍した物理学者であり、文筆家として俳句や随筆を多く残したことで知られる。
 「X線の結晶透過」など一流の業績をあげた一方で、庭の草花や小さな虫、窓ガラスの水滴、金平糖(こんぺいとう)のツノのでき方などに科学を見出(みいだ)し、科学と文学を調和させた。
 本書の著者である池内了氏もそんな寺田に魅了された一人だろう、物理学者として背中を追いながら、彼に関する多くの本を世に送り出してきた。
 その著者があろうことか、「正義と正論を吐く先導者」としての表の顔ではなく、「日常の偏愛や悪癖や思い込みを曝(さら)け出し、随筆では書けない本音や呟(つぶや)きを開陳したような本」を書きたいと思ってできたのが本書である。
 恐る恐るページをめくる。坊ちゃん育ちで自分に甘い寺田だが、過度に心配性な父親であった。五人の子どもたちに少しでも病気の兆候があると、すぐに医者を呼び、医者のいうことを聞くようにくどくど説教した。二人の妻に先立たれたせいか。
 時代は戦争へと異常な熱を帯びていたが、世事への関心は薄く、科学と文学に生きた。
 完璧な人はいない。尊敬できる点があっても、こんな癖があってはこの人は受け入れられないということがある。しかし、この本にある「ふだん着の寅彦」は、どこまでいっても、人間らしい弱さをもった愛すべき人であった。
(平凡社・2750円)
1944年生まれ。宇宙物理学者、総合研究大学院大名誉教授。著書『科学者と軍事研究』など。

◆もう1冊

寺田寅彦著『銀座アルプス』(角川ソフィア文庫)。短文の傑作選。

関連キーワード

PR情報