<再発見!伊豆学講座>脇往還・下田街道 天城越え、村々手伝い

2020年9月6日 07時13分

下田街道が通る天城連山(一番奥)を望む。手前は狩野川=伊豆の国市で

 下田街道は江戸時代の脇往還で、下田往還ともいう。三島から下田までの約七十五キロだ。東海道の三島宿三嶋大社の前から、三島宿南見付(言成地蔵付近)を出てまっすぐ南下。狩野川を西に見て、さらに南へ向かい、天城峠を越えて下田まで通じている。下田の起点は新田町である。
 「増訂豆州志稿」に「湯ケ野(河津町)から下田に至る藤原山越はすこぶる嶮岨(けんそ)なり、梨本(同)より河津浜辺通り下田に至れば五里十一町二十六歩(約二十一キロ)」とある。慶長十二(一六〇七)年、大久保長安によって金を江戸ヘ運ぶための天城越えルートの整備が指示されていることから、これ以後、現在知られている下田往還のルートが開かれるようになったと考えられる。
 幕府の役人が江戸を出立して下田に到着するまで下田往還を利用して通常六日を要した。役人の荷物の運搬や休泊する村を継ぎ立て村、または宿場という。
 宝暦八(一七五八)年に書かれた「湯ケ島村(伊豆市)差出帳」(足立家文書)に「下田海道」「下田往来」とあり、湯ケ島より梨本までの天城山中のうち、道法六里(約二十四キロ)の間、御用状を運んだり、役人の通行したりする時は、作業者を出すことになっているので、他の宿場の手助けはしない、としている。
 宝永七(一七一〇)年に記載された「市山村(伊豆市)指出シ帳」には、奥伊豆下田御番所への往来があり、人馬継ぎ立ては市山、湯ケ島両村で一カ月のうち十五日の順番で、南は梨本まで、北に向かって本立野(伊豆市)まで行う代わりに、東海道三島宿への手助けは天城山越えがあるのでしない、とある。
 一方梨本村は、貞享五(一六八八)年の「沢田村覚書」を見ると、現在の河津町の七か村で下田番所より江戸へ向かう時の天城越え通行の手伝いをした、とある。難所を越えるための南北の村の対応が記されている。
 全国の測量を行い、地図を作製した伊能忠敬は、伊豆の測量と地図作製も手がけた。伊豆の二回目の測量は文化十二(一八一五)年で、測量隊としては第九次。この時、忠敬は高齢のため参加せず、永井甚左衛門を隊長として翌十三年までかけて測量した。
 伊能忠敬測量隊が三島から下田まで休泊する宿場継ぎ立て村は大場中島(三島市)、原木(伊豆の国市)、大仁(同)、本立野、湯ケ島、梨本、茅原野(下田市)、箕作(同)などだった。
 往還整備について、享保二十(一七三五)年の「下佐ケ野村(河津町)差出帳」に「往還道の掃除場等は村々切にして村内だけを行う、しかし、天城山峠から梨本村境までの二里半程の場所は毎年川津(河津)組村々すべてが出かけていって道作を行った」とある。
 江戸時代の下田往還は狩野川を渡らずに通過する道順だった。ただ大仁だけは渡らなければならず、渡し舟を利用した。(橋本敬之・伊豆学研究会理事長)

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