AFN開局75周年 米の流行伝えたラジオ 日本の音楽・文化に影響

2020年9月6日 07時35分

AFNのラジオのスタジオ。迷彩服姿のスタッフらがマイクに向かう=米軍横田基地で

 太平洋戦争の終戦直後に連合国軍総司令部(GHQ)が開局した米兵向けのAMラジオ局「AFN(旧FEN)」が今月十二日、七十五周年を迎える。米国で流行の音楽や文化をいち早くキャッチできると日本で人気を集め、日本のポップスなどに影響を与えた。時代の変化とともに局の存在感は薄れたが、今なお発信を続けている。 (鈴木伸幸)

80年代、FEN関連の書籍が多数置かれた東京都内の書店

 東京・米空軍横田基地にAFN東京放送局がある。日本人十一人を含めスタッフは六十五人。一階には、テレビカメラが並ぶスタジオがある。同局のフィル・ベンチュラ司令官(38)は「今はテレビ放送もやっている。先日の在日米軍トップのケビン・シュナイダー司令官のテレビ会見は、ここから流した」と説明する。
 放送だけでなく、「富士山登頂ガイド」や箸の使い方などを教える動画も作っている。「米兵とその家族が日本で困らないよう、正しい情報を伝えることが使命」とベンチュラ司令官。

AFNの局舎 

 AMの他、ネットでも聴ける放送は、米本土の人気ラジオ番組も流すが、月−金曜の午前六時から午後六時までは、スタッフ四人のDJが交代で番組を担当。洋楽紹介の合間にニュースや天気予報、為替情報に米基地での催事情報も入る。最近は新型コロナウイルスの感染防止策も繰り返している。
 DJの一人、ジェレミー・スティルワグナー(20)は「ジョージア州出身で来日十カ月の僕が知りたくなるような情報を届けるよう心掛けている」と話す。スタッフは本国で研修を受けるが、多くは放送業務の素人。それがAFNの特徴であり、商業放送局とは違う大味な手作り感。開局以来の伝統だ。

テレビ用のスタジオもあり、記者会見などをここから放送する=いずれも米軍横田基地で

 AFNの英語は学校で習う英語とは違い、米国人が米国人向けに使う「生の英語」。円高が進んで一九八〇年代に留学熱が高まると同局の人気も高まり、番組内容を解説する月刊誌も誕生。同局受信専用の小型ラジオも売り出された。
 英語放送への関心は米CNNテレビなどに移ったが、「ながら聴き」できるのがラジオの良さ。教材「AFN最強の生英語リスニング」(アルク)を編集した福住陽子(51)は「米国にいるような空気感がAFNの魅力。映像で分かったような気になるテレビと違って、英語力アップには最適」と話す。
 豊富に流れる洋楽も魅力。「FENで音楽に関心を持った」と公言した故かまやつひろしのような日本人ミュージシャンも少なくない。かまやつは米軍基地で演奏し、AFNにゲスト出演して自作を披露したこともあった。終戦とともに歩み始めたAFN。七十五周年の節目に際し、ベンチュラ司令官は「音楽や文化を通じて日米関係を深化させる一助となっていれば、うれしく思う」と話した。
<AFN> American Forces Network(米軍放送網)の略称。太平洋戦争終戦直後に東京に開設された米軍のラジオ局が原点。FEN(Far East Network=極東放送網)と呼ばれていたが、1997年に米軍の組織改編に伴ってAFNに改称。現在のAFN東京放送局(AM810キロヘルツ)は、太平洋地域全体を統括。青森県三沢市や山口県岩国市など国内4カ所の米軍基地に加え、韓国やインド洋のディエゴガルシア島にも下部組織がある。

◆DJ小林克也の原点 「肉の匂い漂うリッチな響き」

 バイリンガルDJの第一人者、小林克也(79)がFEN時代からの思いを語った。
 ◇ 
 僕は四歳で終戦を迎えた。物心ついたころには、大きなラジオがおもちゃだった。ダイヤルを回すと英語放送が入ってきた。それが米軍の放送。腹をすかせていた時代で、その英語には焼いた肉の匂いが漂うような、リッチな響きがあった。そのうちに、英語を口まねするようになった。最初は天気予報、それからニュース。学校で英語の音読はピカイチ。先生よりもうまいのだから、誰もが認める。自信を持ったね。
 高校生のころ、プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴いて、衝撃を受けた。それを学校で話すと、しばらくして新聞に「プレスリー、米国で人気」の記事。新聞より情報が早いことでも一目置かれ、ますますハマったよ。
 東京の大学に入学後、通訳案内士の国家資格を取った。家庭教師が月五千円の時代、外国人の観光案内で日当三千円だった。英語を見込まれてナイトクラブの司会も頼まれた。「レディース&ジェントルメン!」とやって一晩五千円。結局、大学は中退。教員だった母親には嫌な顔をされた。二十九歳の時にラジオの仕事を初めて受けた。DJといっても、歌手と曲名を紹介するだけ。そこでFENをまねてイントロにトークを入れた。歌手のこぼれ話やジョークも交えて。それがウケて仕事が次々と舞い込んだ。
 野太い声、気の利いたトークで人気のDJウルフマン・ジャックもFENで知り、影響を受けた。それが僕のラジオ番組「スネークマン・ショー」にも生きた。スネークなのは僕が巳(へび)年だから。
 AFNを通じて、多角的な物の見方を学んだ。同じニュースを伝えるにも、日本の放送とは違う。AFNのいいところは、右翼のラッシュ・リンボーの番組の一方、リベラルな番組も流してバランスを取ること。両論あれば、リスナーは考えることができる。僕にはAFNは生活の一部だけれど、「なぜ日本にAFNがあるのか」と考えてごらんよ。米軍は進駐した場所に放送局を開く。撤退したフィリピンにはAFNはないけど、政情不安なアフガニスタンとイラクには残っている。
 僕は戦後日本の復興と国際化の波に乗ったと思う。胃がんに前立腺がん、一昨年には直腸がんの手術を受けたけれど、七十九歳の今も週六本のレギュラー番組を持っている。その原点が米軍の放送だったことは間違いない。 (談)
<こばやし・かつや> 1941年、広島県福山市出身。70年代に音楽の合間に毒気のあるコントを織り交ぜたラジオ番組「スネークマン・ショー」で人気に。80年代、テレビ番組「ベストヒットUSA」を担当、洋楽ブームの立役者となる。ミュージシャンや俳優としても活躍。
※文中敬称略

関連キーワード

PR情報

芸能の最新ニュース

記事一覧