郷土愛した「やっちゃん」 中曽根康弘元首相

2019年11月30日 02時00分

論文表彰式であいさつする中曽根元首相(2017年11月12日撮影)=高崎市で

 「やっちゃん」。高崎市の材木商の家に生まれ、そんな呼び名で親しまれた少年はのちに一国のリーダーになった。二十九日死去した中曽根康弘元首相。自らを温かく育んだ郷土を生涯、愛してやまなかった。 (大沢令)
 「群馬に育てていただいた」。二〇一一年十月。県庁昭和庁舎「正庁の間」で開かれた、名誉県民顕彰式。受賞した中曽根元首相は「生まれた所の賞はありがたい極み」と相好を崩した。
 名誉県民としては、同じ首相経験者の福田赳夫氏(一九九〇年)、小渕恵三氏(二〇〇〇年)などに続き八人目の受賞だった。
 中曽根元首相は一九九七年、生前者叙勲としては吉田茂、佐藤栄作元首相(いずれも故人)に次ぎ、戦後三人目の大勲位菊花大綬章を贈られている。
 関係者によると、国の最高位の勲章を受けた中曽根元首相に名誉県民の話が持ち上がった時「いまさらでは」との声も一部にあったが、応じたという。関係者は「郷土に自分の足跡をとどめたかったからでは」と心中を推し量った。
 中曽根元首相は、高崎市末広町で六人きょうだいの次男として生まれた。 
 「私は裏の材木倉庫の二階にある物干し台に上がり、四季を通じて空と山を見ていた。赤城、榛名、妙義、浅間山、谷川岳は、それぞれの相貌で屏風(びょうぶ)のように上州の平野を包んでいた」
 回顧録「政治と人生」(講談社)で生家の思い出を情景を交えながら回想し、こう続ける。
 「明治大正文学全集を片っ端から読破していた私だったが、物干し台から遙(はる)かに眺めた上州の大自然のほうが、その後の精神生活に大きな影響を与えたことは疑いを入れない」
 古里を詠んだ俳句も多く残している。
 「慈母観音わが少年の夏はるか」
 「浅間嶺の肩へと釣瓶落(つるべお)としかな」(いずれも「中曽根康弘句集二〇〇八」(北溟社)
 そして一九八二年、「はるけくもきつるものかな萩の原」と感慨を込めた。「カラッ風の吹く上州から、材木屋の悴(せがれ)が歯を食いしばり、風雨にうたれながらたどり着いた“萩の原”」(「政治と人生」)。それが、国会議員三十五年でたどりついた首相就任だった。
 中曽根元首相は晩年、塾長を務める公益財団法人「青雲塾」の論文表彰式のため毎年秋、高崎市を訪れていた。二〇一四年の表彰式では若い世代に「志を固め、自分の目標をしっかりと見定めるように」とエールを送り、あいさつをこう結んだ。
 「わが郷土群馬のために、わが祖国日本のために、一生懸命手をつないでがんばってまいりましょう」

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