<東京写真遺産>1960年9月・調布市下布田 自然と人間の調和 「独歩の武蔵野」

2020年9月8日 07時12分

ほこらに手を合わせる女性の後ろを耕運機が通る。武蔵野の面影を探して歩いていたときの1枚という=1960年9月、高橋嬉文さん撮影

 道端の地蔵に手を合わせる白い服の女性を、耕運機に乗った男性が見やりながら通り過ぎる。享保二十(一七三五)年造立と伝わる地蔵は、ツバキの根元にあることから「椿地蔵」と呼ばれ、中世から続く古道「品川道(みち)」の往来を見守ってきた。
 撮影した横浜市青葉区のギャラリー経営高橋嬉文(よしふみ)さん(81)は「国木田独歩の『武蔵野』の風景を記録に残したくて写真を始めた」と話す。現在の都立小金井工業高校に通い、国語で原作に触れ、体育で野原を走るうち、独歩の世界にのめり込んだ。卒業後、現在の狛江市にあった計器メーカーに就職し、休みのたびにカメラを手に歩いた。林にたたずみ、瞑想(めいそう)することもしばしばだったという。
 六十年前、一九六〇年九月の調布市下布田(現在の布田)は、農村風景をとどめていた。近くに住む農家小野一弘さん(56)は「このあたりは土地が肥えていて、昔から稲作や畑作が行われてきた」と話す。小野さんの叔母で、五九年に結婚して日野市に移るまで布田で暮らした土方フミさん(86)は「子どもの頃は一面畑で、家はほとんどなかった。道路は砂利道で。祖母と母は毎月二十三日、お花とお線香を持って、お地蔵様にお参りしていた」と懐かしむ。
 東京五輪を控え、都市化の波はこの地にも及んだ。道路拡幅工事のため、椿地蔵はツバキとともに六三年に約五メートル南側に移された。その後、樹齢七、八百年の「シロハナヤブツバキ」という品種であると鑑定され、六六年には市の天然記念物に指定された。「品川通り」と名を変え、舗装された道路沿いには住宅が立ち並び、「武蔵野」の面影は失われていった。

品川通り沿いに柵で囲われてたたずむ現在の椿地蔵。名前の由来となったシロハナヤブツバキの古木が後ろから見守る

 ほこらを覆わんばかりの高さだったツバキの木は、移設や周囲の環境変化の影響か、樹勢が衰え、昭和の終わりから何度か回復処置が施されている。現在は、根元から五幹に分かれていたうちの一幹とひこばえが、つやつやとした葉を茂らせる。
 品川道は、武蔵国府の府中から、調布、狛江、瀬田(世田谷区)などを通り、品川までを結んでいた。調布市文化財調査報告書「調布の古道・坂道・水路・橋」(二〇〇一年)には「十四世紀前半には今の道筋を走っていたと推察できる」とある。市内のところどころに「旧品川みち」の表示が残る。
 「東京一極集中のせいで、武蔵野の風景は失われてきた」。高橋さんは嘆きつつも、調布、小金井、三鷹の三市にまたがる野川公園の整備、立川市や埼玉県新座市などを流れる野火止用水の清流復活事業を例に、「水と緑と土は、人間にとって不可欠。独歩の言う、自然と人間の生活がうまく調和した、新たな『武蔵野』が生まれるはず」と願う。
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 文・小形佳奈/写真・戸上航一

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