はらだ有彩 東京23話 世田谷区 「猫の災難」

2020年9月16日 12時01分

古典の人情噺を現代版にリブートする話題作。イラストやテキスタイルデザインも手がける多彩な作家、はらだ有彩さんが、古典の人情噺を元に、現代版としてリブートする話題の新感覚ショートショート。 東京23区を舞台に繰り広げられる人情噺を、軽やかなタッチで描き下ろします。

「お世話になります、株式会社シーブリームのディレクター、三熊でございます」
お世話になります、お世話になります、お世話になります。
よく冷やされた応接室に挨拶のフーガが折り重なる。偉い人から順番に挨拶するというマナーはいつできたのだろう、と三熊悟朗は名刺入れを開けたり閉めたりしながら考えていた。
三熊は最初に挨拶する。偉いからだ。三熊のあとに企画部の営業マンがやたらときびきびとした声音で続く。営業のあからさまに溌剌とした態度が、三熊は苦手だ。かといってダルそうにされても腹が立つ。結局自分たちの携わっている仕事というものは、我々デザイン部が中核をなしているのだ、という漠然とした矜持が三熊を不遜にさせていた。
「こちらデザイナーの犬飼です。犬飼、ご挨拶」
営業の後ろに並んだ若手社員がぼんやりと突っ立っているので、慌てて促す。犬飼と呼ばれた男はよく言えば控えめに、悪く言えば覇気のない動きで数歩進み出た。三熊は内心で舌打ちをする。そろそろ4年目になろうかというのに、まるでなっていない。これが現代っ子というやつか。
たった今受け取ったばかりの、「株式会社キャットタン」と書かれた名刺を名刺入れの向こうに3枚並べる。いただいた名刺をこうやって机に置かなければならないというマナーは一体いつできたのだろう。
三熊は早くも気が散っていた。どうせ自身が手を動かすことはないのだから、細かいことは気にしなくていい。偉い人が来た、という事実が重要なのだ。
営業はそこそこ大きな案件を前に浮足立っていた。
「株式会社キャットタン」といえば、90年代初頭にコアな人気を誇ったサイコホラー恋愛育成ゲーム『ゼリカテッセン』を有するパブリッシャーである。スーパーファミコンのタイトルだが、少し不気味でシュールな世界観は今でも熱心なファンが多い。三熊も高校生の頃に徹夜でプレイして親に怒られた思い出がある。あの頃はそういう、不気味で、ちょっとふざけていて、個人の趣味で好き放題に作ったようなゲームが今よりも多かった。

その『ゼリカテッセン』の30周年記念を前に企画された、スマートフォン向けリメイク作品のコンペを勝ち取ったのが三熊たちだ。シナリオの中に登場人物たちが20年後に再会することをほのめかすキーワードが頻出していたため、既にインターネットでは移植や続編が噂され、期待と思い入れの強さゆえの拒否反応が飛び交っていた。
一番左に置かれた名刺の持ち主、プロデューサーの男が訝しげに犬飼を見た。随分若いけど大丈夫なのか、と言いたそうな視線を察知し、三熊はフォローを入れる。
「犬飼にも勉強させてやってください。もちろん私がきっちり管理しますので」
メンツにはメンツ、中年には中年、偉い人には偉い人。同じ重さだとされるもの同士を引き合わせてバランスを取るというマナーは、一体いつできたのだろう。さっぱり分からないが、皆が守っているということは、きっと重要なものなのだろう。何だか分からない重要な決まりの中で、三熊は気づけば50年近く生きていた。
キャットタンが事務所を構える渋谷のオフィスビルは、地下に食堂街が広がっている。屋外に出ずに済んで助かった、と三熊はフロアガイドを眺めながら考えていた。遅めの昼食を探して歩き回るにはまだ残暑が厳しい。駅に繋がる通路にほど近い、適当な飲み屋兼定食屋へ入る。
店内は空いていた。営業は早々に次の打ち合わせへ向かっていったため、三熊は犬飼と差し向かいで座るはめになった。相席やカウンターなら沈黙も気にならなかったのに…と恨めしく思う。
「この店でいいか」と聞いたとき、犬飼が「どこでも大丈夫です」と答えたことが三熊の耳の後ろ辺りにいらいらと引っかかっていた。大丈夫って何だよ、大丈夫って。犬飼は、三熊が気を使って家族や恋人の話を振ってやっても、もごもごと「はあ」とか「まあ」とかしか言わない。気の利かないやつだ。仕方のないやつだ。この調子では彼女もいないだろう。
野菜ばかり盛りつけられた、見るからにあっさりした定食をもそもそと口に運んだ犬飼は、早々に食べ終わるともたもたと財布を取り出し、暇を持て余していた。
「いい、いい。出してやるから」
980円のランチセットを2人分支払いながら、三熊は爪楊枝を吐き出した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
株式会社シーブリームは2000年に設立されたゲーム開発・運営会社だ。オフィスは創業以来ずっと三軒茶屋にある。27歳のときに、まだできたばかりだったシーブリームにグラフィックデザイナーとして入社した三熊は、ここ数年はずっとディレクターを名乗っている。
ディレクターというものは得てして実体を掴めない肩書だが、三熊の場合は「見積もりの整合性を取るために設置された、色々な業務を内包した人」だった。実際の主な役割はクライアントとの窓口と、見積もりにおける頭数の水増し要員だ。偉い人が責任を持って見ていますよ、という名目で、ひと月当たりの動員人数を1人分増やして採算を取る。
それだけだ。
「あの、三熊さん、ちょっといいですか」
突然PC画面の向こうに犬飼がにゅっと顔を出し、三熊は咄嗟にExcelを開いた。あたかもさっきまで進捗管理をしていたかのように、セルをひとつ選んで色を変える。
正直に言うと、三熊にはあまりやることがない。しかし三熊本人には、自分が暇だという事実は認識できなかった。40人程のオフィスの真ん中の島には空調の風が届きにくい。三熊はいつも汗をかいていた。業務がないことが露見しないよう、一日を持て余すことのないよう、三熊は無意識のうちに辻褄を合わせていた。働いているふりをするのは骨が折れる。三熊がいつもいらいらしているのは、この工作のせいかもしれなかった。
「何、今忙しいんだけど」
「先週出したモンスターのサンプル、キャットさんからフィードバック来ましたか?」
「あ」
「え?」
キャットさん、とは株式会社キャットタンの社内での愛称だ。
三熊は慌てて咳払いをする。試作したデータサンプルをいくつかキャットさんに送り、方向性をチェックしてもらう予定だったのだ。OKが出なければ、あとに控えている大量のモンスターに着手できない。
犬飼たちの作ったデータにミスがないか、自分で最終確認をしてから送ろうと思って忘れたまま、1週間が経っていた。
「……ああ、今朝来てたわ。問題ないから、今月分のデータ進めちゃって下さいって」
「え、一発OKだったんですか? 全く修正なし?」
「何だよ、俺のこと疑ってんの?」
「いえ…」
むっとした態度を取って見せると、本当にむっとしていたかのような気分になってくる。
犬飼は妙に生真面目なところがあり、それが三熊には少し鬱陶しかった。リメイクなんだから、どうせ同じものを仕様に合わせて作り直すだけだ。頭を使うようなことじゃない。少しくらい確認が前後しても大丈夫だろう。
口ごもりながら自分の席に戻っていった犬飼の周りに、彼の同期が数人集まっている。ひそひそと何か囁かれているのが分かるが、よく聞こえない。
自分はいつからこんな風だったっけ、と三熊はときどき考える。三熊が入社した頃の社長と専務は、三熊の専門学校の先輩たちだった。めでたい、めで鯛、という適当な語呂合わせでシーブリームと名づけられた会社は、まだ10人程の集団だった。手探りながらもデザイナーの仕事は楽しかった。ときには営業だってやった。好きなゲームを作れることが楽しかった。
三熊が30代後半になった頃、にわかに会社が大きくなった。古株の三熊は数人のデザイナーを管理する立場に回され、慣れないマネジメントにかかりきりになり、制作業務に携わる機会が減った。三熊と同じように社歴を理由に出世させられた社員のうち数人は「デザイナーとして技術を磨き続けたい」と転職していった。数人は若者を連れて独立した。
気づけば、いつの間にか新しいグラフィックソフトや技術についていけなくなっていた。何をやればいいのか分からない。かといって大勢をまとめることもできない。それが環境のせいだったのか、三熊のプライドのせいだったのかは分からない。気心の知れた仲間がごっそり辞めた社内に、三熊が相談できる相手はいなかった。
学校を出たばかりの新入社員は全員子供に見え、どう接していいのか途方に暮れる。子供相手に「できない」なんて言えない。失敗したなんて言えない。質問されても上手く教えられない。分からないことを聞かれるたびに三熊は不機嫌になった。的外れなアドバイスをして嘲笑されるくらいなら、機嫌が悪そうにしていた方がマシだ。
俺、いつのまに、こんなおっさんになったんだろう?

――@三熊様 昔の作風のまま起こすのではなく、今っぽい絵柄に変えたいと、資料もお送りしてましたよね。
――@三熊様 『ゼリカテッセン』はかなり思い入れのあるタイトルですので、方向性をきちんと擦り合わせたいです。
数日後、キャットさんから何通も届いたフィードバックはかなりテンションが下がっていた。モンスターのサンプルは、犬飼の心配していた通り、OKではなかったのだ。幸いやりとりに使っているメッセージアプリのチャットグループに犬飼たちは入っていないから、黙っていれば今回のミスは分からないだろう。
――弊社の作業者が不勉強なために、お手数おかけして誠に申し訳ございません。
三熊は最も丸く収まりそうな謝罪を送信した。メンバーが信用を失くすのはいいが、ディレクターが失くすのはまずい。そんなことになったら客だって困る。
既に作り終えていた15体程のモンスターが全部やり直しになったことを伝えると、犬飼は変な顔をした。
「何だその顔。仕方ないだろ、キャットさんがそう言ってんだから。いっつもそうなんだよ、あそこは。お世話になってるんだから、込み込みで聞いてやんなきゃだめなの。分かる?」
先手を打って三熊が説教する。
「……はあ、はい……」
「客の我儘聞くのも仕事だよ。もっとやる気持って取り組んでくれよ。ゲーム作りたくて作ってるんだろ」
メンバーを鼓舞するのも、偉い人間の仕事である。説得の甲斐あって犬飼はようやく修正に応じる姿勢を見せた。
「三熊さん、お忙しいと思うので、よかったら僕の方でイメージサンプル探してキャットさんに送りましょうか」
「ああ、じゃ、いいよそれで。やっといてくれる? 新しいチャットグループ作っといてくれていいから。ヨロシク」
クライアントとやり取りするために導入されたメッセージアプリは、三熊には使いづらかった。スラックだの、ズームだの、スカイプだの、こんがらがってくる。ひとつのプロジェクトの中に、いくつものチャットルームやスレッドなどが乱立し、訳が分からない。スレッドを繋げたつもりで、新しく作り直して話題を断ち切ってしまう。返信は必然的に遅くなっていった。
しかし犬飼が自ら買って出るなら、上司として任せてもいいだろう。犬飼によって作られた【デザイン進捗】というチャットルームが頻繁に更新されていくのを、三熊はあまり見なくなっていた。
自分が後輩たちに何と言われているか、うっすらと三熊は知っていた。窓口もできないんだよな、あの人。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
今まではうまくやってきた。だから、これからもうまくいくだろう。
そんな安寧が、慣性によって保たれていた遺産だったということに気づいたのは、秋の深まった日曜の午後だった。三熊は豪徳寺の自宅でひとり缶ビールを飲んでいた。妻と娘は2人で買い物に出かけているらしく、姿が見えない。
朝からひっきりなしに、短い受信音が鳴り続けている。複数のチャットルームに表示される、新規メッセージのアイコン。
『ゼリカテッセン』プロジェクトは難航を極めていた。
ゲームを作るには時間がかかる。スケジュールの遅延は発見しづらく、軌道修正しづらく、挽回しづらかった。三熊は犬飼の参加していないチャットルームでたびたびキャットさんとやりとりし、そのたびに変更点を社内に周知し忘れた。
平たく言えば、三熊のせいで無駄な作業が爆発的に発生していた。
別に覚えていられないわけじゃない。手が回らないのだ。どうしてだか分からないが、とにかく時間がない。ディレクターというスケジュールの交渉役を失ったプロジェクトは、ぐにゃぐにゃに溶け落ちているも同然だった。
今までは何とかうまくやってきた。さらに昔には、もっともっとうまくやれていた。
放物線を描いて膨らんだはずのキャパシティが、萎み始めていることに三熊は気づかないふりをしていた。成功と失敗が反転する日が、ついに訪れたのだ。今まで失敗せずにうまくやってきたのではない。曖昧な成功を失わなかっただけだ。
「ああ、もう!うるさいな」
また受信音が鳴った。
未読19件。そのうちの半分がキャットさんから、半分が犬飼からだった。犬飼はこのところ休日出勤が続いている。三熊は実作業から退いているので、行っても仕方がなかった。だって何もやることがないのだ。1、2度オフィスに出向いて菓子などを差し入れたが、さほど喜ばれなかった。
――@三熊さん データ提出のデッドラインを交渉してほしいとお願いしていた件、どうなりましたか。
――@三熊さん 残り日数とノルマを計算したところ、やはり間に合いそうにありません。
――@三熊様  いただいたデータ、先日お願いした修正箇所が反映されておりません。
――@三熊様  以前三熊様とお打ち合わせした内容が、実作業されている方に伝わっていないようなのですが。
――@三熊さん 戦闘シーンの仕様についてクライアント様との間に齟齬があるようなのですが、何かご存じでしょうか。
――@三熊様  最低限のクオリティを確保するために、再度調整していただけますでしょうか。
ぽん、ぽん、と表示され続けるメッセージを乱暴にタップして、三熊はメッセージアプリを開く。酒に酔った頭で、とにかく犬飼を説得しなければとぼんやり考えた。
部下がポジティブに仕事をできるようにするのが、上司の役目だ。フリック入力は三熊の太い指には少し不便だった。
――@犬飼くん 戦闘パートは作ってからキャットさんにフィードバック貰わないと直せないので、とりあえず作ってくださいと前に言ったはずです。
――@犬飼くん 変更に関する回答は、キャットさんのところで止まってるんで。キャットさんが意味不明なこと言ってるんで、こっちも迷惑してます。とにかくやってください。よろしくお願いします。
半分くらいは事実であった。「ただのリメイクではなく、今っぽくしたい」「新しい要素を入れたい」というふんわりとしたオーダーが三熊を余計に混乱させていた。
溜飲が下がってソファに投げ出したスマートフォンが、すぐに震え出した。今度はメッセージではなく着信だった。犬飼からだ。
まだ文句を言っているのか、困ったやつだな。そう思ってスピーカーをオンにすると、大音量で犬飼が叫んだ。
「三熊さん!投稿するチャットルーム間違ってます! それ、社内用じゃなくて、キャットさんとのやりとり用です!」
すっと血の気が引く。暗くなっていく頭の隅で、三熊は犬飼の怒鳴り声を初めて聞いたな、と考えていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
翌日は間の悪いことに、『ゼリカテッセン』プロジェクトの定例会議だった。
三熊と犬飼は黙ったまま渋谷へ向かう。もたつく手で慌ててチャットルームの発言を削除したとき、既読マークがついているかどうかを確認すればよかった。どうか誰も見ていませんように。
会議ではほぼ全ての時間、犬飼が喋っていた。キャットさんは特別変わった様子もなく、にこやかに受け答えしている。
もしかして見ていないのだろうか。日曜だったしな。見ていたとしても、こちらが無茶振りされていることは事実なのだ。
犬飼は三熊の代わりに、スケジュールの遅れを詫びている。三熊の代わりというのは正確ではないかもしれない。何しろ、この場で口を出せるほど理解していることが、三熊には一つもなかった。
ではタイトですが、引き続きお願いします、という挨拶を合図に、ミーティングルームのドアが開けられる。三熊は努めて不自然でないように鷹揚に構え、ドアを押さえてくれている社員の前をすり抜ける。エレベーターホールまで見送ってくれた社員たちは、会釈しながら「犬飼さん、くれぐれもよろしくお願いします」と言った。
「犬飼さんでなければ、こちらとしても、貴社がどういったお気持ちで取り組まれているのか分かりませんので」
エレベーターのドアが閉まって、白けた視線が遮られる。
「……やっぱ、見られちゃってましたね、チャット」
「………」
三熊はすぐに声を出せなかった。こういうときに何と言えばいいのかを、なぜマナーに組み込んでおいてくれないのだろう。名刺の並べ方などよりよほど実用的ではないか。
三熊と犬飼は高層階からゆっくりと落下する。空調は整っているはずなのに、エレベーターには熱い空気が充満している。三熊さん、と犬飼がためらいがちに言った。
「ね、三熊さん、直接会社にクレーム入れられる前に相談しましょうよ」
「………」
明らかに納期が遅れていて、お叱りまで受けている。全社員に頭を下げて手伝って貰うのが得策だ。しかし三熊は引き続き硬直していた。相談などしたくなかった。そんなことをすれば、自分の管理ミスが発覚してしまう。
「絶対キレてたじゃないっすか、キャットさん」
「………別に問題、」
「全然あるっすよ!」

2日連続で聞く怒鳴り声は、もう三熊を驚かせなかった。
「別チームの人たちも、ヘルプで来てくれるそうです。部長にも話して、許可貰いました。あとはディレクターから……三熊さんから最終打診してもらえたらGO出せるって言ってくれてます。ゲーム作りたくて作ってるんだろって言ったの、三熊さんじゃないすか」
犬飼の口調は、どうしようもなくなって、もう笑うしかないときのように、いつになく砕けている。三熊は目の前の男が、自分がこの会社に入ったときと殆ど同じ年齢だということに気づいた。『ゼリカテッセン』が発売されたときなんて、こいつはまだ生まれてもいない。「作りたくて作ってるんだろ」なんて、やる気を出させるための言葉のあやだ。
三熊はぼんやり立ち尽くしていた。自分はいつから、どうやってここに来たのだろう。このまま地下300階までだって降りていけそうだ。手がべたべたと汗ばむ。
確かに、確かにあった時代だった。
「……犬飼くん」
「はい」
「何か、作業を」
三熊は手のひらをスーツのパンツで拭いながら、床を見た。床の下に広がる町を見た。
「俺でも手伝える作業を教えてくれないか」
「え、三熊さんもやるんすか」
「他のチームまで出てきてもらってディレクターがやらないのはまずいだろ」
「それはマジでそうです、マジで」
エレベーターは地下深くまでめり込むことなく、B1階で停止した。この前入った定食屋が、飲み屋の暖簾をかけ直す時間だった。改装されていない地下街の古いタイルがきゅっきゅっと鳴る。
いっそこのまま飲みに行かないかと聞くと、犬飼は「僕、酒、あんま飲まないっす」と言って早々にICカードを取り出して改札へ入っていった。
三熊は現代っ子に謝る方法もマナーに組み込んでおいてくれればいいのにと思いながら、彼の後を追いかけた。

覚え書き・《猫の災難》
世田谷区に、猫が祀られているお寺があります。大勢の招き猫が並ぶ「豪徳寺」。招き猫発祥の地のひとつとも言われています。
落語「猫の災難」は、元は上方落語だったものが東京へ広まっていったもので、舞台は全く世田谷区ではないのですが、猫に縁深い豪徳寺があるということで世田谷区のお話にしてみました。
飲ん兵衛の熊五郎は、隣家の猫がお見舞いで貰った鯛の食べ残しを譲り受ける。頭と尻尾しかない鯛。熊五郎の家に遊びに来た兄貴分の男は、その鯛の一部を見て丸々一尾だと勘違いし、酒盛りしようと提案する。喜んで酒を買って戻ってきた兄貴に、頭と尻尾しかないと言い出せない熊五郎。そこで隣の猫が身を盗んでしまったと嘘をつく。かわいそうに思った兄貴は、酒を置いて肴を買いに行く。熊五郎はその間に酒を飲み干してしまい、困り果ててまた隣の猫のせいにする。猫を懲らしめに行こうと憤慨する兄貴。そこへ隣家のおかみさんが登場し、「ウチの猫に責任をなすりつけないで」と怒り出す…。
あらすじだけだと熊五郎が最悪野郎のように見えますが、「肴なんていいから兄貴と酒を飲みたい」と留守番中に寂しがるシーンもあり、どこか憎めません。人間の憎めない部分がいつも見えるようになっていたらいいのにと思ってしまいました。

はらだ有彩

関西出身。テキスト、テキスタイル、イラストレーションを作るテキストレーター。2014年から、テキストとイラストレーションをテキスタイルにして身につけるブランド《mon.you.moyo》を開始。2018年5月、日本の民話に登場する女の子の心情に寄り添う本『日本のヤバい女の子』(柏書房)刊行。「wezzy」「リノスタ」などウェブメディア、『文藝』『東京人』『装苑』など雑誌への寄稿。
◆はらだ有彩公式サイト:https://arisaharada.com/
◆Twitter :@hurry1116
◆Instagram :@arisa_harada

書籍化された これまでの「東京23話」


加藤千恵の東京23話
幻冬舎文庫「この街でわたしたちは」



松田青子の東京23話
河出書房新社「東京 しるしのある風景」



山内マリコの東京23話
ポプラ社「東京23話」

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