松竹撮影所開設100年 蒲田はキネマの天地だった

2020年9月18日 07時15分

蒲田撮影所の前に架かっていた松竹橋の親柱を前に、蒲田映画祭への意気込みなどを語る大田観光協会の栗原洋三さん(左)と岡茂光さん=大田区で

 かつて大田区の蒲田地域は「東洋のハリウッド」を目指した時代があった。戦前、松竹キネマ蒲田撮影所があり、映画産業とともに栄えた。今年は撮影所の開設から、ちょうど百年。映画「蒲田行進曲」でも知られるキネマの街をしのび、今日から住民による映画祭が開かれる。

蒲田撮影所のジオラマ

 JR蒲田駅東口の区民ホールのロビーに、四つの石碑のようなものが置かれている。「これは、撮影所の入り口の前にあった松竹橋の親柱。ここは蒲田撮影所の跡地です」。大田観光協会常務理事の栗原洋三さん(76)が説明した。地下には、松竹から寄贈された撮影所のジオラマも展示されている。
 区や観光協会によると、蒲田撮影所は一九二〇(大正九)年、旧蒲田村の約三万平方メートルで開設。初期の日本映画を代表する女優の田中絹代さんや、小津安二郎監督らが活躍した。よく知られる「キネマの天地」という言葉は撮影所の所歌に出てくる。

現在の大田区民ホール一帯にあった松竹キネマ蒲田撮影所=大田区提供

 当初は無声映画の時代だったが、音の出るトーキー映画が広まると、騒音に悩まされるようになった。周囲には工場が並び、東京飛行場(現羽田空港)の完成で航空機も飛んでいた。手狭になったこともあり、神奈川県大船町(現鎌倉市)に移転が決まった。蒲田製作所は十六年間で約千二百本を製作し、三六(昭和十一)年に閉鎖された。
 戦後になっても当時の名残で、五〇年代は蒲田には二十館以上の映画館がひしめいた。しかし、相次いで閉館し、昨年秋、ついに蒲田から映画館が消えた。

今回の上映作品の一つ「大人の見る繪本 生れてはみたけれど」。1932年製作、小津安二郎監督の無声映画=マツダ映画社提供

 薄れていく映画の街の面影。栗原さんは「華々しい歴史を生かせないか」と考えていた。二〇一一年、地元育ちの俳優の故小沢昭一さんから「蒲田と映画で何かやりたいね。映画祭をやったらどうだ。協力するよ」と言われたのが、映画祭のきっかけになった。
 同級生で映画好きの岡茂光さん(76)らと奔走し、一三年に開催にこぎ着けた。松竹映画を中心にした上映会と、俳優らのトークショー、資料展示が映画祭の柱。毎年続けているが、予算は限られる。「手弁当もいいところ。それも、かなり粗末な弁当です」と岡さんは笑う。
 第一回の前年に小沢さんは亡くなったが、遺志を継いで仲間の映画関係者が駆けつけてくれた。その後も香川京子さん、岡田茉莉子さん、岩下志麻さん、有馬稲子さん、倍賞千恵子さんら、そうそうたる女優たちがトークショーを引き受けている。
 栗原さんは「『ハイヤー代ぐらいしか払えないのですが…』と無理を言ってお願いすると、みんな快く『蒲田で映画祭をするなら』と来てくれる。古い映画人にとって、今でも蒲田はブランド」と語る。
 八回目の今回は、撮影所開設百年の節目。しかし、新型コロナウイルスの影響で、イベントを縮小し、ほとんどの参加は事前予約制に(受付終了)。十八日から十月中旬にかけて週末の八日間、無声映画の上映会やトークショーなどが開かれる。
 岡さんは「蒲田は映画で発展したのに、今では撮影所があったことを知らない住民もいる。期間中ぐらいは、映画を軸に蒲田がにぎわってほしい」と願う。映画祭の開催日は、「蒲田行進曲」でおなじみの撮影所歌のメロディーが、再び駅前の商店街に流れる。

◆銀幕スターが歩いたモダンな街

 庶民的なイメージの強い蒲田だが、かつては時代の先端を行くモダンな街で「流行は蒲田から」と言われていた。
 中心的な存在だったのは松竹キネマ蒲田撮影所。社宅もあり、多くの俳優や技術者が住んでいた。駅の近くには、しゃれたレストランや喫茶店が開店した。田中絹代さんも一時は暮らすなど、映画スターが闊歩(かっぽ)する街だった。
 最先端の西洋風の製品の工場も集まった。高級洋風陶器で知られる大倉陶園や、国内初のクリスタルガラスを作った各務クリスタル製作所、初の和文タイプライターを開発した黒沢商店が進出。船舶用ディーゼルエンジンを開発した新潟鉄工所の工場、香料メーカーの高砂香料もあった。
 撮影所だけではなく、これらの工場も大半が区外に移った。市民グループ「蒲田モダン研究会」共同代表の鍋谷孝さん(60)は「モダンな施設がこれほど集積していたのは、地元でもあまり知られていなかった。新しいものに挑戦していた歴史をもっと知ってほしい」と話している。
文・宮本隆康/写真・淡路久喜
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