YS11よ、よみがえれ 戦後復興の象徴「日の丸旅客機」 オヤジ技術者、展示へ奮闘

2020年9月23日 07時15分

公開を待つYS11=茨城県筑西市で

 戦後初の国産旅客機「YS11」。羽田空港で眠っていた機体を、茨城県筑西市で常設展示するプロジェクトが進んでいる。分解して陸路で運び、また組み立てる仕事を担ったのは、ベテランの元整備士たち。新型コロナウイルスの影響で資金難や作業中断に見舞われながらも、産業遺産の保存と公開を目指している。

作業を見守る遠藤さん(左から2人目)やエヌエス航空技術総研の代表社員ら=茨城県筑西市で

 真新しい建屋で、旅客機の尾翼がクレーンでつり上げられた。筑西市のテーマパーク「ザ・ヒロサワ・シティ」で十五日、数人の元整備士らが集まり、YS11の胴体に尾翼を取り付ける作業が進んでいた。
 「ボルトを通す穴の位置を合わせるので、ミリ単位でも位置がずれたら付けられない」。機体の移設を請け負った「エヌエス航空技術総研」(品川区)の代表社員、遠藤怜さん(74)が感心しながら見守っていた。
 YS11は戦後、官民共同で開発されたプロペラ機。移設された機体は、国立科学博物館(科博)が一九九九年から保存している。
 科博によると、量産された初号機で、試作機を除けば現存する最古の機体。六五年に運輸省(現国土交通省)に納入され、空路の安全性の検査機として活躍した。二万時間以上の飛行の後、九八年に退役。日本機械学会の「機械遺産」などに認定されている。
 羽田空港の格納庫で保管してきたが、保安上の問題から、市民が見学できる常設展示は難しかった。約二十年間で公開したのは数回しかない。
 空いている格納庫を転々としていたが、五輪を前に羽田空港からの移設を求められた。多くの乗り物を展示するザ・ヒロサワ・シティが展示場所を提供し、科博が管理する方式が決まった。
 エヌエス航空技術総研は航空技術の継承を目的に、日本航空の元整備士四人が設立したコンサルタント会社。昨年二月、科博から作業の委託を打診された。

15日に公開された尾翼を取り付ける作業=茨城県筑西市で

 「整備でプロペラやエンジンは外しても、翼を取り外したことなんてない」という未経験の業務。構造を一から調べ、分解や搬送の方法を検討した。昔のつてをたどり、日航の元整備士約二十人を集めた。
 昨年九月から約七カ月かけて機体を解体。今年三月、全長二十六メートルの胴体や主翼を大型トレーラーに載せ、羽田空港から約五時間かけ、約百二十キロ離れた筑西市に運んだ。
 しかし、その後にコロナ禍が拡大した。科博は臨時休館などで収入が減り、予算が不足した。整備士たちは平均年齢が七十歳とあって、四月から感染防止のために作業を中断した。
 科博は予算不足を補うため、ネットで資金を募るクラウドファンディングを始めた。整備士たちも六月に作業を再開し、これまでに主翼やプロペラ、エンジンの取り付けを終えた。
 作業のこだわりは細部に及ぶ。「文化財として価値を損なわないように」と、外からは見えない部分も、すべて元通りに戻した。「もう少し細かい整備をすれば、また飛べると思う」とメンバーは胸を張る。
 この後は細かいビス打ちなどを施し、順調なら来年初めにも完成する予定。「YS11を開発した当時の意気込みが、百年先も感じられるように残ってほしい」と遠藤さん。「飛行機も古いが、われわれも古い。みんな生き生きしていて、YS11と同じように、久しぶりに活躍の舞台を与えられた」と笑った。
     ◇
 日本は戦前、高い航空技術を持っていたが、連合国軍総司令部(GHQ)に航空機開発を禁止された。このため、敗戦から7年間の空白を経て開発されたYS11は、戦後復興の象徴とされた。
 零戦の設計で知られる堀越二郎氏など、戦前の技術者らが設計に携わった。国や新三菱重工業(現三菱重工)、川崎航空機(現・川崎重工)などが1959年、半官半民の「日本航空機製造」を設立し、開発を目指した。
 64年に運輸当局の検査に合格し、悲願の「日の丸旅客機」として東京五輪で聖火を輸送。試作機も含めて182機が製造され、国内外で旅客機として使われた。
 しかし、海外メーカーとの競争に勝てず、受注は伸びなかった。赤字が続き、73年に生産を中止。国内では2006年に民間定期路線から姿を消した。現在、航空自衛隊が7機を所有している。

◆分解、輸送大作戦

昨年11月 プロペラが外される

今年3月 未明の都心を行く胴体

今年7月 エンジンを再び取り付け=3枚とも国立科学博物館提供

文と写真・宮本隆康
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