<つなぐ 戦後75年>「生きる」ということ 問う 越谷の山川さん、旧満州での体験 表現

2020年9月23日 07時18分

旧満州での体験を語る山川さん=いずれも越谷市で

 素朴で優しい絵柄とは裏腹に、描かれるのは75年前の過酷な現実。越谷市の山川和三(かずみ)さん(85)は、太平洋戦争中に満蒙(まんもう)開拓団として海を渡った体験を、得意のイラストで表現している。敗戦後の命懸けの逃避行、飢えや寒さに耐えた収容所暮らし…。「『生きる』という人間の根源について考えてほしい」と、少年時代の記憶を伝えている。 (近藤統義)
 「あれは描くのも嫌な場面だった。ソ連兵が私のリュックサックをつかんで、こうやってね」。銃を向ける手ぶりを交え、山川さんは語った。旧満州(中国東北部)の首都・新京(しんきょう)(現長春)で、侵攻したソ連軍の支配下にあった収容所に入っていたころのことだ。
 冬場は極寒の大地。郊外にあった汽車の停車場に忍び込み、暖を取れる燃料を探した。炭水車に積まれた石炭をリュックに詰めて帰ろうとすると、体が動かなくなった。屈強な男の手が背中に伸びていた。「危うく殺されるところだった。夢中で逃げたよ」
 東京・葛飾で、六人きょうだいの末っ子として育った。戦況が悪化した一九四四年の夏、祖母がいる静岡に十歳で疎開。年が明けた冬に母と姉、兄との四人で、新京の北西の街に移り住んだ。
 それから半年足らずで、運命は暗転する。敗戦の報を受け、すぐに引き揚げの準備に取りかかった。「飼っていた鶏を兄貴たちが食用に加工処理した。かわいがっていた子豚や犬が次は自分の番かと、寂しそうに去って行った」
 現地民やソ連軍の襲撃におびえながら、線路伝いに一週間ほど歩いただろうか。「枕木の間をどう飛び跳ねて渡ろうか、下を向いて考えるようにしていた」。果てしなく続く地平線を見ていると、気が遠くなる。子どもなりの工夫だった。
 長い旅の末にたどり着いた収容所での生活は、約二年に及んだ。食料は配給の乾パンと黒パンだけ。栄養失調で発疹チフスにもかかった。「実際の恐怖は今のコロナ以上にあったね」。感染して亡くなった日本人の遺体を埋めるため、墓穴を掘ったこともある。
 四七年に家族四人で帰国を果たし、十八歳で大手玩具メーカーに入社。三十代半ばで独立し、現在も現役のおもちゃデザイナーとして活躍する。一方で「子どもたちに何か残したい」と、古希を迎えたころから戦争体験をマーカーペンで描写し始めた。
 その原画約二十点を、越谷市越ケ谷本町のブックカフェ「糀屋」で今月末まで展示している。広く発表するのは初めてだ。「こうして過去を語れるのは、今日まで生きてきたからこそ」。まだ描き切れていない自らの昭和史を、今後もまとめたいと思っている。

展示されたイラストの原画。敗戦後の逃避行など印象的な場面を描いている


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