貫く極限 伝説のボディービルダー 没後20年、マッスル北村さん

2020年10月1日 07時15分

在りし日のマッスル北村さん=映像作家の岡部みつるさん提供

 過酷な筋トレと減量を繰り返すボディービル界で、今年で没後20年を迎えながらも「伝説のボディービルダー」と語り継がれる人がいる。練馬区出身のマッスル北村さん=享年(39)、本名・北村克己=だ。マシンを破壊する高重量トレ、死の引き金になった極限の食事制限、東大に合格するほどの頭脳…。数々の伝説は、夢に向かって突き進む北村さんの生き様そのものだった。
 冷凍ささみを加熱せずにミキサーにかけて作ったシェイクを一気に飲み干し、「最高」とほほ笑む。ジムでは、マシンの重量では足りず、ロープで数十キロのダンベルをくくりつけ、筋肉を追い込む。死の数日前まで撮影した映像には、過酷な日々を笑顔で過ごす姿が残されている。
 巨大な筋肉を身にまとった北村さんだが、幼少期は内気でおとなしかった。妹の善美さん(57)によると、小学生のころは手芸が得意で、同級生の破れたズボンを縫ったりしていた。
 そんな少年が体を鍛えることに目覚めたのは小学六年のころで、中学に入るとその熱は周囲の理解を超えていく。中二の時には、自宅から河口湖までの往復三百キロのサイクリングに挑戦。十六時間ペダルをこぎ続け、帰りの奥多摩湖付近で意識を失った。後にこの経験から「肉体、精神の限界を極めたいと心に決めた」と話し、善美さんも「このころから兄は何事も追求するようになった」と振り返る。

兄の思い出を語る妹の北村善美さん

 その後、進学校の東京学芸大付属高校に入学。勉強よりも肉体の鍛錬に励む生活を送りながらも、二浪の末、東大に合格するほど頭脳明晰(めいせき)だった。
 ボディービルとの出会いは東大入学直後。近所の体育館で出会ったボディービルダーに「大会に出てごらん」と勧められた。当時の体重は五五キロ。ビルダーのような肉体ではないが、鍛錬を続けてきた自負心から出場を決意した。
 だが、本番の会場にいたのは大きな筋肉の選手ばかり。自分がガリガリに思え、残ったのは悔しさだけ。この敗北を機に翌日から大学に通わず、トレーニング漬けの日々を送った。
 食事も変えた。全卵二十〜三十個、牛乳二〜三リットルなどをノルマとし、睡眠時間を削って食べ続けた。あの「ささみシェイク」は、「あごが疲れて、量が食べられない」ことから誕生した。
 二年後には体重は九〇キロに増え、かつて完敗した大会で見事、優勝。結局、東大は最初の二週間ほど授業に出席しただけで、やめた。その後は国内外の大会で活躍。三日で十五キロも減量するなど常識を覆す手法と巨大な肉体でボディービル界で誰もが知る存在になる。
 そして二〇〇〇年五月、世界戦に向けて、減量を開始。二カ月後に群馬県であったイベントで披露した肉体は見る者を圧倒した。丸太のような腕、脇からせり出す広背筋…。大学時代から北村さんを知るパーソナルトレーナーで、自身も米国の大会で活躍した渡辺実さん(58)は「まさに超人。次元が違った」と評する。

ジムに飾られている愛用のトレーニングウエア=いずれも豊島区のゴールドジムノース東京で

 過去最高の仕上がりになりつつあった北村さん。だが四日後、過酷な減量による低血糖症で倒れ、帰らぬ人となった。群馬のステージで「限界に挑戦して素晴らしい肉体を築きたい」と話していたが、本当に限界を超えてしまった。
 善美さんは「その生き方に後悔はないと思う」としのび、「目標に突き進む追求力が兄の魅力」と話す。渡辺さんも「彼の生き方、哲学は後輩たちにとって大きな財産になったはずだ」と早すぎる死を惜しむ。
 そんな北村さんが中学生向けの講演のために書いた原稿にはこう記されている。「限界だと思い知らされた時から本当の戦いが始まる。『もう一歩だけ頑張ってみよう』という心の叫びに正直に生きようと努力するほど、最後に笑って死ねる人生があると信じています」
 文・西川正志/写真・五十嵐文人
 ◆紙面へのご意見、ご要望は「t-hatsu@tokyo-np.co.jp」へ。

関連キーワード

PR情報

TOKYO発の最新ニュース

記事一覧