はらだ有彩 東京23話 葛飾区 「縛られ地蔵」

2020年10月15日 10時01分

古典の人情噺を現代版にリブートする話題作。イラストやテキスタイルデザインも手がける多彩な作家、はらだ有彩さんが、古典の人情噺を元に、現代版としてリブートする話題の新感覚ショートショート。 東京23区を舞台に繰り広げられる人情噺を、軽やかなタッチで描き下ろします。

栄蔵えいぞうの家には、ばあちゃんしかいない。
栄蔵はよく学校を休む。理由は分からない。休んだ日には彼の家まで連絡帳を持っていく。
商店街の通りに面した窓のところに、いつもじっと座っているのが、ばあちゃんである。栄蔵が生まれるずっと前は住居兼飲み屋だったらしい建物には、細いシャッターが降ろされている。シャッターの隣にテイクアウト専用の小窓が取り残され、すりガラスに凹凸の模様がぐねぐねと踊る。もう店は潰れたというのに、ばあちゃんはいつも銭湯の番台のように窓際に座っていた。ばあちゃんがいるかどうかは、彼女の着物とも洋服ともつかない、割烹着のような、羽織のような、カーディガンのような服がすりガラスの向こうに浮かび上がっているかどうかで分かる。
あつしにはその小窓は少し高すぎた。6年生になってずいぶん背が伸び、クラスの背の順では一番後ろに並ぶけれど、大人がもたれるためのカウンターはやけに上の方に設置されていた。指で触れると、錆びた金属がもろもろと張り付く。
届け物の連絡帳や、拾った木の棒や、ペンケースなどを伸ばしてガラスをコツコツと突き、しばし待っていると鍵だけが静かに開けられる。さらに待っていると、ばあちゃんが顔を出す。
栄蔵には友達がほとんどいない。同級生たちは皆、彼を遠巻きに見ながら、素知らぬ興味をニヤニヤと剥き出しにしていた。栄蔵を「栄蔵」、と呼ぶのはクラスでは忠だけだ。皆は「芝田」とか、「あいつ」とか、苗字を伏せて「し…、」とか、なんだか必要以上にもにょもにょとした言葉を使う。ただし栄蔵は、忠のことを「大岡」と呼ぶ。
——芝田んとこの父親はカテーナイボーリョクらしい。それで母親はベツのオトコとカケオチしたんだって。いや、本当は2人ともジョーハツしたらしい。ばあちゃんをヤシナウために、小学生なのにバイトしてるらしい。いつも給食のパンを持って帰っているらしい。
新鮮な言葉を使いたい欲求と、分別のない無邪気さと、くらい笑いが組み合わさり、栄蔵が学校を休むたびに家庭事情はセンセーショナルに書き換えられた。
誰も連絡帳を届けたがらないので、同じ商店街に住んでいる忠にいつもお鉢が回ってきた。ぐねぐねと曲がる中川の、蛇行の内側に彼らの通う小学校の校区は広がる。そこから京成立石駅の方へ10分ほど戻ったところに、商店街は川のように細長く横たわっていた。
忠の家も随分前に商売をやめた。自転車店を営んでいた祖父と、会社勤めの両親が、かつて店舗だった家に同居している。今年のクラスには、同じ商店街の子供があまりいない。
みんなが栄蔵を避けたがるのは、普通の一軒家やマンションみたいに、ドアがあって、玄関があって、チャイムを押して入る仕組みではない家が怖いからだろうか、と忠は想像した。忠の家だって半透明の引き戸を開けるとコンクリートの広い土間が残っているが、持って生まれた穏やかな気質か、真面目な性分が幸いしてか、イジられた経験もハブられた記憶もない。
カラカラと窓ガラスが開けられる。
「ばあちゃん、こんにちは」
「ん、ボンかい、いつもありがとうねえ、悪いねえ」
ばあちゃんは目を細めて忠を見る。しばらく全身をスキャンしたあと、ごそごそと身を捩り、窓から手を出して500円玉をくれようとする。
慣れた身振りで忠は辞退した。受け取ったことはないが、ふと指に触れた硬貨はばあちゃんの体温にしっとり温まっていた。
「あそこんちのばーちゃんこえーよ」
いつだったか、忠が不在のときに何度かメッセンジャーボーイをさせられたらしい生徒が言いふらすのを聞いた。小学生にとって500円というのはなかなか大金である。謂れのない見返りを突き出される不気味さと、子供に対する微妙な羽振りの良さを彼らはことさらに強調する。
そんな風に騒ぎ囃すくせに、栄蔵に直接突っかかっていく者はいなかった。栄蔵がいつもつまらなそうに、へらへらと曖昧な笑顔を貼り付けていて、でもときどき思い出したように真顔になるのを恐れていたのかもしれない。
忠は栄蔵を割と好いていた。去年、消しゴムを借りたことがあったのだ。忠がごしごしと強く擦ってこの世に生み出す消しカスを、栄蔵はじっと見つめていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
夏休み明けで、誰もがはしゃいでいた。
腕の日焼けの境目を見せ合ったり、宿題ドリルの終わりの方をズルして写させて貰ったりと皆忙しい。教室の後方の棚にはめいめいの作った工作やら、研究やらがずらりと並べられた。
栄蔵は公園に生えている植物の分布を研究していた。窓際の席について、忠は3つ前に座る栄蔵の刈り上げられた襟足を眺める。
8月に一度、栄蔵に会ったのだ。
プールの帰り道、忠は冷えた体にだくだくと汗をかいて、表面だけが焦げている冷凍食品のような気分だった。通りかかったコンビニのドアが左右に開き、整えられた空気が流れ出す。先生からは「ひとりでコンビニに入ってはいけない」と言われていたが、このままでは溶けてしまいそうだった。
別に誰にも見咎められていないのに、店員に訝しがられているのではないかと疑心暗鬼になり、なるべく視線を避けて奥の棚の間へ滑り込む。
冷やし中華のパックを持って、栄蔵が立っていた。
「栄蔵じゃん」
「おう」
「久しぶり」
大人びたつもりで、新鮮な挨拶を使ってみる。何ともない様子で商品を選ぶ栄蔵はもっと大人びて見えた。忠に比べると幾分小柄で、小脇にノートとペンケースを挟んでいる。さらに冷やし中華とアクエリアスを抱えると手一杯になり、脇の下からノートがずり落ちた。忠は慌ててノートをキャッチする。
「わりい」
「持っとくよ」
ポケットから金を出し、レジのトレイに置く栄蔵に、忠は羨望の眼差しを向ける。500円硬貨だ。コンビニの隣の公園で食べるというので、ベンチまでノートを運ぶ。忠も木陰で麦茶の入った水筒を出した。
夏休みは給食がない。麺の上にトッピングをぶちまけながら、栄蔵は指を舐めた。
「ばあちゃん、昼は寝てて飯食わないんだ。朝と夜は一緒に食べるけど」
「具合悪いの?」
「別に悪くない、ほんとに、ただ寝てるだけ」
終業式の後しばらくは自分で料理していたが、早々に飽きてコンビニに通うようになったという。
思えば、あの「ばあちゃん」はいささか年を取りすぎているような気もした。忠の「ばあちゃん」や友達の「ばあちゃん」はもっと若くて、洒落ている。栄蔵という名前もばあちゃんがつけたらしい。お爺ちゃんみたいで嫌だ、と本人は不満そうだった。
まだ自由研究に手を付けていない忠は、栄蔵のノートを見せてもらった。いくつかの公園を回って観察された植物の研究ノート。葉のスケッチが上手かった。忠は図工はてんでだめなのだ。素直な感嘆を漏らしながら全ページを捲り終えると、栄蔵は麺を啜りながら照れている。冷やし中華の汁が数滴飛んで、忠はノートを庇った。
「こんなん、別に、描きゃ終わるだけだし、見ればいいだけだし、金かかんないし、余計な頭使わないし」
新学期の教室で、棚に立てかけられた栄蔵の大学ノートは1ヶ月前よりも分厚くなっている。学校で会ったらまた「久しぶり」と挨拶しようと思っていたのに、ここでは「おはよう」しか出てこない。
ずっと夏休みだったらよかったのに、と忠は恨めしく思った。ここではない場所で会いたかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
放課後、掃除の時間に栄蔵が鼻血を出した。机を動かしながらお調子者の数人がわあわあと暴れ始め、ふざけて突き飛ばし合ったひとりが栄蔵を巻き込んで倒れたのだ。
謝るより先に「なんでそんなところにいるんだ」と不気味そうな表情を浮かべたクラスメイトにも、栄蔵はにやにやと笑みを浮かべて「いいよぉ、別に」と平坦に呟いた。笑いながら乱暴に鼻を拭いたせいで顔中に血が広がり、ぶつかった生徒は気まずそうに目を逸らす。
その場にいた生徒のうち、唯一掃除当番ではなかった忠が保健室へ付き添うことになった。忠は級友と遊んで帰るために、掃除が終わるのを待っていたのだった。先に校庭行っといて、後で追いかけるから、と言って教室を出ると、いまひとつ盛り上がらない返事が遠慮がちに追いかけてきた。
保健の先生は中年の女性で、何をしでかすか分からない子供の世話に慣れているから鼻血くらいでは声もあげない。くるくると綿を巻いたものをピンセットで鼻につめこまれるとき、栄蔵は初めて身じろいだ。うう、と嫌がる声を聞いて忠はおや、と振り返り見た。見たって、それ以上は何も分からないのに、視線をそらすことができない。保健室へ連れて行くというミッションはクリアしたのだからもう校庭へ戻ってもよかったが、栄蔵が鼻を冷やされている間、忠は黒い革張りの回転いすで回転し続け、先生に嫌な顔をされた。一回転するごとに、1秒ずつ栄蔵が見えた。
ようやく血がとまった頃には、日が翳り始めていた。普段はさっさと帰ってしまう栄蔵をこんな時間に廊下で眺めるのは珍しかった。湿気を帯びた上履きのゴムが床材に引っかかってキュッキュッと音を立てる。
「わりいな、じゃあ、俺、帰るから。大岡は、あいつらが待ってるんでしょ」
「うん、でも鞄取りに行くから」
友人たちは帰り支度を済ませて遊んでいるだろう。下校時刻まであまり時間がなかった。
思わぬ夕暮れに、強がって怖い話をしようと試みる。学校にひとつやふたつはある怪談を話そうとするが、なんだか、4時だか5時だかに出る老婆、のような、老人、のような、漠然としたものしか忠には思い出せなかった。それって怖いのだろうか。栄蔵といるせいで、どうしてもあのばあちゃんが想起される。怖いかなあ。
「なあ、あの…なんかトイレに出るとかいうやつ、4時ばばあだっけ?5時ばばあだっけ?」
「4じゃねえ?5時だったら皆帰ってんじゃん」
「皆帰ってるから怖いんじゃないの」
「そう言われると自信なくなってきた」
栄蔵はいつになく饒舌だった。夕日が強く差して、逆光の境目に小さな横顔を浮かび上がらせる。その鼻がよく冷えていることを忠は知っていた。産毛がきらきらと反射する。
「おれがオバケだったら、4時には出ない」
「じゃあ、何時に出るん?」
「0時」
忠は不思議だった。学校の怪奇現象というものは、大体4時台に起きるものと相場が決まっているのではないか。それに、遅くとも夜11時には寝るよう親に言いつけられていた。0時なんて、そんなに遅くまで起きていられるのだろうか。だけど0という響きは大人っぽく、心地よかった。
もう一度、栄蔵のスケッチが見たい。
遠くから音楽クラブの合唱が聞こえるような気がする。廊下が迷路になるオバケが出ればいいのに、と思ったがさほど大きくもない校舎では迷いようがなかった。
ドアを行儀悪く足で開ける。ふちに取り付けられたゴムが跳ね返る音に重なり、バン、と何かをぶつける音が響く。
オバケは終ぞ出なかったが、教室には人間がいた。人影が勢いよく振り返る。良く見知った顔だ。クラスメイトだというのに、挨拶もせずに前のドアを開け放ち、走り去っていった。
「……あいつ何してんだ?」
「何でもいいよ、関係ねえし」
「わけ分かんねえ」
「漏れそうだったんじゃないの」
まるで興味なさそうに鞄を掴むと、栄蔵はサンキュー、と手を振って出て行った。その場に居残って栄蔵の宿題ノートを見るつもりでいたのに、ひとりになるとさっきの怪談を思い出して途端に心細くなり、忠は慌てて追いかけた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
翌朝、教室に入る前から何かが起きていることが分かった。
友人たちが廊下に半分身体を出して、顔を寄せ合って密談している。忠がおはよう、と声をかけると、意外にもいつも通りの挨拶が返ってくる。明らかに異常な空気が漂っているのに、普通の顔をした日常を投げ返されて、いっそう不穏だった。
不穏の正体は、彼らの横を通り抜けて教室の入り口をくぐった途端に明らかになった。
あっと声が出る。
棚にぎゅうぎゅうと並べられた宿題のうち、一際大きな工作が床にぶちまけられ壊されていた。辰野という生徒の作品だ。昨日、遊び半分で足を滑らせて栄蔵にぶつかった男子である。
栄蔵はぼんやりと眠そうに席について、外に揺れる枝を眺めていた。その自分には何も起きていないというような横顔を見て、忠は何が起きているのかを一瞬で理解した。
囁きが伝播し、こだまのように広がる。小さくひそめた子供の声音というものは、さわさわと揺れる葉の音に似ていなくもない。だけど全部毟ってやりたい気分だった。
――やっぱ、大丈夫とか言って、恨んでたんじゃん。
ざわめきの中、いやにはっきりとその発言だけが浮き上がり、皆がいっせいに振り返る。急に視線を浴びてうろたえているのは、辰野と仲のいい男子生徒だ。昨日の放課後、慌てて飛び出していった人物だった。
その一言で、枝擦れの音はますます大きく震え始める。
芝田んとこの父親はカテーナイボーリョクらしい。それで母親はベツのオトコとカケオチしたんだって。いや、本当は2人ともジョーハツしたらしい。ばあちゃんをヤシナウために、小学生なのにバイトしてるらしい。いつも給食のパンを持って帰っているらしい。自分の研究がショボいから、豪華なものを持ってきた辰野に、嫉妬したらしい。
忠は背負っていたリュックを高く掲げ、ぶん投げた。野球選手のような剛速球を放ったつもりだったが、軽い荷物は緩やかな放物線を描いて落ちていく。がん、と中に入っていたペンケースが栄蔵の机の脚に当たった。金属どうしが、がしゃんがしゃんと鳴る。
「お前、やったのか」
全員が忠を見ていた。栄蔵も見ていた。いつもあからさまに栄蔵を庇う忠がいよいよ反旗を翻したのだと思った級友たちは、いっせいに無関心な歓びを浮かべる。ただ1人、栄蔵だけがいつもと同じ顔で見上げていた。
「やったのか」
忠のくちびるから出るのは、「や」と「た」と「の」と「か」だけだった。繰り返すうちに、それらの音の持つ意味はほどけて空気に溶けていく。
ささやかなエンターテインメントを、期待していないふりをして心待ちにしている生徒たちがふいに怯む。忠が机を蹴り飛ばし、振りかぶった。
がつんと右手が栄蔵の頬に当たる。うまく握りこめていなかった軟骨がぐきぐきと鳴る。決して体格が良い方ではないのに、栄蔵は吹き飛ばなかった。押し込んだ拳がぐっと止まる。昨日とまったはずの鼻血が栄蔵の唇をつ、と落ちた。
その赤い血を幽体離脱した気分で眺めているうちに、忠の左頬にも衝撃が走る。栄蔵が殴り返していた。足がもつれ、乱れた机に背がぶつかる。きゃあ、とかぎゃあ、とかうおお、と誰かが叫んだ。
殴り合う、というよりは押し合うような稚拙さで、教室の壁を伝って後ろの方へ転がり進む。
立ち上がった栄蔵が棚につかまり、一番端に立てかけてあったノートが落ちた。栄蔵の赤い大学ノートだった。両手で表紙と背表紙を掴み、栄蔵がノートを2つに引きちぎる。右手と左手で、それぞれ正反対の方向へ投げた。
うう、うう、と栄蔵が唸りながら掴みかかる。獰猛な獣の鳴き声に似ていたが、嗚咽だった。
忠が殴り返すせいで、栄蔵はのたうち回りながら暴れた。このくそったれな日々にものを投げつけたのは初めてだった。忠もうう、うう、と同じ声で唸る。自分が栄蔵をどうにもしてやれないことが、忠にはすっかり分かってしまった。唸りながらびろびろと泣き、無言で行ったり来たりする2人を、担任の先生が駆けつけるまでクラスメイトたちはばつが悪そうに見つめるばかりだった。
壊された宿題のことを先生に喋る者は誰もいない。全員泣いているか、下を向いているかである。奇妙なほど静かだ。騒動の割に2人とも軽傷だったため、よくある男子の喧嘩だということで処理されることになった。
2人には帰宅命令が出され、ついでに教室を荒らした罰として反省文の提出が言い渡された。栄蔵に課された反省文の内容には、「暴れて」辰野の工作「まで」壊したことへの謝罪も含まれていた。
先生たちが、保護者に連絡したが、栄蔵の家は誰も電話に出ない、と相談し合っている。ばあちゃんは寝ているのだろう。職場から急遽呼びつけられた忠の母親は鷹揚な性格で、きょとんとした顔つきで学校まで謝りに来て、同じくきょとんとした顔で2人とも連れて帰ることを引き受けた。
「あんたたち、車出してくるから駐車場の外で待っててちょうだい」
エントランスの自販機で250mlのペットボトルを1本ずつ子供たちに買い与え、母親は車のキーを探して鞄を掻きまわしながら走っていった。
冷えたぶどうジュースが、ほんの少し切れた唇に大げさに染みる。忠が隣を見ると、栄蔵も顔をしかめてジュースを口に含もうとしていた。ぶつけた背中だけが痛い。蝉がもうどこにもいなかった。
「俺、ああすればあいつが名乗り出ると思ったんだ」
忠は描かれたあとに乱暴に消されたスケッチの、鉛筆の跡をなぞる心持ちで呟いた。さっきまで胸のどこかに、うまくいく予感と高揚が満ちていたはずなのに、急に足元に穴が開いて全部落ちていったみたいだ。宙ぶらりんに足だけがばたつく。
あのノートはどうなってしまったのだろう。
「そんなわけねえじゃん」
栄蔵はばかだなあ、という顔を向けた。何もてらいのない、本当にばかだなあ、としか考えていない顔だった。
「世の中、お前みたいな正直者ばっかじゃないんだよ」
母親の車が、ゆっくり角を曲がって近づいてくる。栄蔵がふいに耳打ちした。
「忠、作文なんかいいから、今日遊びに来いよ、ばあちゃんに500円もらってコンビニ行こうよ」
頬に掠った栄蔵の鼻先は、ペットボトルの水滴で透明に冷えていた。

覚え書き・《縛られ地蔵》
葛飾区、JR金町駅から15分。南蔵院の境内に「しばられ地蔵尊」は祀られています。
お地蔵さまが縛られるとはこれいかに、という不思議な名前ですが、大岡越前こと大岡忠相の伝説に由来します。
——ある呉服屋の使いが、南蔵院で一休みしているうちに居眠りしてしまった。目を覚ますと反物がごっそり盗まれている。奉行所で騒ぎを聞いた大岡越前は「盗みの現場に居合わせたにもかかわらず、黙って見ていただけなんて、お前も同罪だ!」と地蔵を指さし、縄でぐるぐる巻きにして奉行所へ引き立てる。お地蔵さまが市中引き回しなんて、こんなおかしなことはない。野次馬がぞろぞろとあとをついていき、奉行所に押し寄せる。
大岡越前は奉行所の扉を締め切り、「見物料として反物を一反ずつ支払うように」。
差し出された反物の中に盗品が見つかり、かくして泥棒はお縄となったのであった。
犯人は現場に帰るというか、反物を出してしまった泥棒が素直なのか。こんな風にすかっと解決、しないことの方が現実には多いですが、大岡越前とお地蔵さまの不思議な共闘に思いを馳せました。

はらだ有彩

関西出身。テキスト、テキスタイル、イラストレーションを作るテキストレーター。2014年から、テキストとイラストレーションをテキスタイルにして身につけるブランド《mon.you.moyo》を開始。2018年5月、日本の民話に登場する女の子の心情に寄り添う本『日本のヤバい女の子』(柏書房)刊行。「wezzy」「リノスタ」などウェブメディア、『文藝』『東京人』『装苑』など雑誌への寄稿。
◆はらだ有彩公式サイト:https://arisaharada.com/
◆Twitter :@hurry1116
◆Instagram :@arisa_harada

書籍化された これまでの「東京23話」


加藤千恵の東京23話
幻冬舎文庫「この街でわたしたちは」



松田青子の東京23話
河出書房新社「東京 しるしのある風景」



山内マリコの東京23話
ポプラ社「東京23話」

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