<戦火の記憶 戦後75年 1945→2020>音楽評論家・宮沢縦一さんの従軍記、74年ぶり復刊

2020年10月8日 07時06分

音楽評論家の宮沢縦一さんの従軍体験記「傷魂」(右)と、今年復刊された本

 オペラを中心にした音楽評論家の故・宮沢縦一(じゅういち)さんが、太平洋戦争末期にフィリピンで「九死に一生を得た」従軍体験を記した「傷魂(しょうこん)」が、七十四年ぶりに復刊された。きっかけは、世界的バイオリニスト・黒沼ユリ子さん(80)の断捨離だ。「若い人にぜひ読んでほしい」と、黒沼さんは願っている。

(山形忠顕さん提供)

 「宮沢先生からはひと言も従軍体験を聞いたことがなくて、読んですぐには信じられなかった。三十五、六歳という人生の最も輝かしい時に、こんな体験をしていたとは…」。千葉県のJR御宿駅の駅前通り沿いにある「黒沼ユリ子のヴァイオリンの家」で、黒沼さんは感慨深げに語った。黒沼さんは二〇一四年に活動拠点だったメキシコから御宿町へ移り住み、一六年に「日墨友好の拠点に」と、この文化施設を開いた。
 〇〇年に九十一歳で亡くなった宮沢さんとは、子どものころから「ユリちゃん」と呼ばれて親交があり、黒沼さんの演奏会によく来ていたという。「先生は自爆して死のうとも試みていた。この本を読んでからは『コンサートで音楽をお聴きになっていた時、どんな気持ちでいたんだろう』と思いますね」
 宮沢さんは、昭和十九(一九四四)年五月に召集され、輸送船に詰め込まれてフィリピンへ。魚雷を受け船が炎上する阿鼻叫喚(あびきょうかん)をへて現地に到着したが、仲間の多くは飢餓や病に苦しみ、戦う前に亡くなっていった。宮沢さんも、熱帯性潰瘍に侵された上に米軍の砲撃で足を負傷。密林で動けず瀕死(ひんし)のところを米軍に救出された。
 「傷魂」は、こうした経緯や事実を淡々と詳述し、兵士の境遇の過酷さや悲惨さ、戦争の愚かさを浮き彫りにする。黒沼さんは昨冬、新聞の切り抜きなどの間から、歳月をへてボロボロになった初版本を見つけた。渡されたのは「小学五、六年のころでは」という。
 読まずにいたその本を読んで、ありありとよみがえる体験に驚き、自著の出版で縁のあった冨山房インターナショナル(千代田区)の坂本喜久子社長(78)に相談。坂本社長は「世界中の人々がコロナで苦しんでいる今こそ、平和への機運づくりに」と復刊をすぐに決めた。

「傷魂」の初版本を持っていた黒沼ユリ子さん 

 黒沼さん自身も、五歳になる少し前の一九四五年五月、自宅のあった渋谷区幡ケ谷で激しい空襲から家族と逃げた経験がある。「もう重かっただろうと思うけれど、手をつないだら歩くのが遅いから、母がおぶってくれたんですね」。防空ずきんの上からブリキのバケツをかぶされ、「焼夷弾(しょういだん)の音が砂や小石が落ちてくるように耳に残っている」という。
 延焼を防ぐために取り壊された建物の跡地に逃げると、高さ二メートルほどのスレートの塀が一枚残っていた。木製の扉が外された穴から塀の表と裏を大勢で行き来して火の粉や熱風をよけた。「塀一枚のおかげで今日、生きている。死んでいてもおかしくなかった」
 宮沢さんは生前、音楽関係者にも従軍体験を語ることはなかった。宮沢さんに師事した上越教育大名誉教授(声楽)の山形忠顕(ただあき)さん(82)=八王子市=は、宮沢さんの死後に「傷魂」を知り、国会図書館で探して読んだという。「宮沢さんは戦時中、音楽界の大政翼賛会といえる日本音楽文化協会で働いていたが、音楽を守る活動が上層部ににらまれて兵に出されたのだろう」と話す。
 「傷魂」の初版発行は終戦一年後の一九四六年秋。「まだ、戦争責任が左右入り乱れて議論されている時期で、身の危険も感じ勇気がいったと思う。宮沢さんは戦争に対する自らの責任を対談で語っていたことがあった。責任を感じて『残しておかなくては』と、書かざるを得なかったのだろう」と山形さんは師に思いをはせた。
文・岩岡千景/写真・市川和宏
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ヴァイオリンの家の前で。右は姉の黒沼俊子さん=いずれも千葉県御宿町で

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