国家に搾取される母性 『乳房のくにで』 作家・深沢潮(うしお)さん

2020年10月11日 07時11分
 サスペンス小説ではないのに、不穏な出だしからハラハラする。ジェットコースターに乗ったように、一気読みさせる作品だ。
 主人公は三十代の福美。生後三カ月の娘がいて、余るほどおっぱいが出る。父親の男は姿をくらまし、貯金はおむつ一袋分もない。空腹を抱えてデパートをうろついていると、見知らぬ女性が「いい仕事がある」と声をかけてきた。その女性は、母乳を売る秘密組織の運営者だった−。
 「重いテーマを楽しく読んでほしかった」と深沢さんはほほ笑む。「母乳の成分は血液とほぼ同じ。男子を産み育て、家を守るのが女性の役割という家父長制の血統主義を想起させる。家事や育児、介護など女性に全てのケア労働を任せる<乳離れできない男たち>の象徴でもあります」
 福美は、大物政治家の家で乳母になる。その家の息子の妻は、自分をいじめた小学校の同級生、奈江だった。復讐(ふくしゅう)の暗い喜びを覚えながら、母乳の出ない奈江に代わって授乳する福美。だがやがて、自分は授乳ロボットと同じだと気付く。
 一方、奈江は高学歴のキャリアウーマンだが、夫が原因の不妊に苦しむ。あげく、複数の女性と関係した夫に性病をうつされ…。
 母乳しか生きる武器がない福美と、義母に「おっぱいも出ないなんて母親失格」と罵倒される奈江。母乳は、国家に搾取される「母性」の象徴であり、人間扱いされない点で、二人の辛(つら)さの根源は同じなのだ。
 作中で随一の強烈なキャラクターが、奈江の義母。「女は頭ばっかり良くてもろくなことはない」と男尊女卑思想を全開にする。だが深沢さんは「一番の犠牲者かも。自分を否定する価値観を内面化して、自他を傷つけている」と語る。
 在日コリアンとして、生きる痛みを知る深沢さんの視線は、多角的で公平だ。冷血漢だと疎まれた在日の父親の秘められた過去を描く『海を抱いて月に眠る』、日本と朝鮮半島の間で揺れ動く若者の群像劇『緑と赤』…。「これまでは、個人が心の持ちようで壁を乗り越える物語を書いてきた。でもコロナ禍で、個人が克服するだけでなく、社会構造を変える必要があるな、と思った」。理不尽な状況を「自分さえ我慢すれば」とやり過ごすと、抑圧は次世代に続く。そんな目覚めから、分断されていた女性が連帯するラストに、かすかな希望が光っている。双葉社・一七六〇円。 (出田阿生)

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