<よみがえる明治のドレス・1>130年前の大礼服、国産か 刺しゅう補強の和紙に日本語

2020年10月11日 14時58分

修復が進む昭憲皇太后の大礼服=京都市中京区の染技連で

 皇室とゆかりの深い尼門跡(あまもんぜき)寺院の大聖寺(だいしょうじ)(京都市上京区)に所蔵されていた明治期の洋装を代表する昭憲(しょうけん)皇太后の大礼服(たいれいふく)が百三十年の時を経てよみがえる。現存する三着の大礼服のうち最古のロングドレスはどこでつくられ、制作者は誰なのか。修復と同時に、謎に包まれた大礼服の制作過程が少しずつ解き明かされようとしている。

「遣払帳」と書かれた補強用の和紙。金属刺しゅうの裏側から見つかった

 「実際に大礼服を解体して修復を始めたところ、いろいろなことが分かってきました。一番の発見は、金属刺しゅうの裏にあった補強のための和紙に日本語の文字が見つかったこと。この刺しゅうが日本でつくられたことの証拠です」
 今回の大礼服修復プロジェクトで研究の中核を担う「中世日本研究所」(京都市上京区)のモニカ・ベーテ所長は、和紙発見の意義をこう強調する。
 この和紙には、墨書で「遣払帳(つかいばらいちょう)」「天竜」などの文字が記されていた。大阪市立大都市文化研究センター研究員の柗居(まつい)宏枝さんが分析したところ、和紙は横須賀海軍造船所の経理台帳で、一八七八(明治十一)年に起工し、八三年に進水した初代の木造船「天龍」を建造した時期のものであることが判明。柗居さんは「海軍の軍服の金モール製作者が、大礼服の刺しゅうにも関わったのではないか」と推察している。

「修復と研究は表裏一体ですね」と流ちょうな日本語で語るモニカ・ベーテさん

 ベーテさんによると、和紙を補強材として使う技法は日本で十六世紀ごろから行われている刺しゅう方法で、立体的にみせるために泥紙が使われていて、金属刺しゅうの下にフェルトや段ボールを挿入するヨーロッパの手法とは異なる。
 刺しゅうと同様に、生地や縫製、材料の調達も日本で行われたのだろうか。
 今回修復される大礼服の制作年代は、「バッスル」と呼ばれる後ろ腰に膨らみを持たせる流行のスタイルなどから、八八〜九〇年とみられている。

修復前の大礼服(大聖寺門跡蔵)

 昭憲皇太后が初めて大礼服を着用したのは八七年正月の新年拝賀であった。このことから、大聖寺所蔵の大礼服は二着目の大礼服の可能性がある。一着目とみられる大礼服は八六年にドイツ・ベルリンに発注した記録がある。大聖寺の大礼服も当初、ドイツ製ではないかとみられていたが、今回の調査で国産である可能性が出てきた。
 昭憲皇太后が八七年一月に発した洋装奨励の「思召書」の中で「西洋の服を着るとしても、日本製の服地を使用するように」との方針が示されていた。ベーテさんは「自らの思いを実践するように、日本の服地をつかってこの大礼服を作らせたのではないか」と推測している。
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<昭憲皇太后(1850〜1914年)> 明治天皇の皇后(美子(はるこ)皇后)。逝去後に追号として昭憲皇太后が贈られた。一条忠香の三女として京都で生まれた。日本が近代化していく中、宮中改革と養蚕の奨励、女子教育の育成、福祉や医療の推進などに尽力した。

「昭憲皇太后御肖像」(宮内庁提供)

<大礼服> 明治時代から1945年まで使用されていた宮廷服。女性が着る礼服は、大礼服(マント・ド・クール)、中礼服(ローブ・デコルテ)、小礼服(ローブ・ミ・デコルテ)、通常礼服(ローブ・モンタント)の四つに分かれ、大礼服は皇后が新年の拝賀式に着る最も格式の高いロングドレスで、上衣(ボデイス)、トレイン、スカートの3部で構成。今回修復される大礼服は1911(明治44)年、昭憲皇太后が大聖寺に下賜(かし)された。

◆17日から明治神宮で展示

 明治神宮ミュージアムで十七日から行われる大礼服の特別展示の目玉は、トレイン(全長三・四メートル、幅一・七六メートル)の修復が完了した下半分と修復前の上半分の表と裏側をみせることだ。
 「修復過程をオープンにすることは、美の継承になる」。同神宮国際神道文化研究所主任研究員の今泉宜子(よしこ)さんは、今回の展示の狙いをこう説明する。
 展示は十二月六日まで。午前十〜午後四時半。休館は木曜日。入館料は一般千円、高校生以下九百円。
 文・吉原康和/写真・横田信哉、吉原康和
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