<再発見!伊豆学講座>土肥の上り新米 リスク避け陸上輸送

2020年10月18日 07時16分

「上り新米飛脚運搬」の図(静岡県史研究第5号から)

 早稲(わせ)のコメはすでに収穫が終わり、十一月になると晩稲(おくて)の収穫が始まる。現伊豆市土肥で温泉を利用した稲の促成栽培があったことを以前(二〇一九年六月三十日付本欄)お伝えした。これについて、新しい興味深いことが判明した。
 江川文庫の文政十三(一八三〇)年の史料に、六月二日韮山出立、江戸本所にある代官江川氏の江戸役所まで土肥の上り新米を飛脚が届ける先触れが残っていた。本来、江戸ヘ向かうことを「下り」というのに、「上り」が使われるのは将軍への献上品であることを意味する。この先触れによっても、そのことが読み取れる。
 土肥では寒明け早々の種卸から温泉をかけ続けて促成栽培を行い、六月に収穫を行った。肥料は何も与えず、ひたすら昼夜を問わず温泉をかけ続けることによって収穫を迎えるのである。六月といっても旧暦なので、ほぼ一カ月遅れの現在のカレンダーでは七月といったところである。今、国内で七月に収穫するところは少ない。
 収穫した新米を玄米にしたものと、根から茎、実をつけた状態で竹筒に入れて昼夜を超えて飛脚が持参するのである。途中では奇麗な水を時々与え、飛脚が輸送途中で病気になったら、喪中ではない者が代わりに輸送するよう命令が出ていた。献上品なので、けがれがあってはいけない。なおかつ、今年の収穫物である証拠として、成熟した稲の状態を見せることによって、その価値を高めた。飛脚は、前に玄米を梱包(こんぽう)した箱、後ろに稲を入れた竹筒を振り分けにし、「御用」と書いた札をつけて運搬した。
 安永六(一七七七)年、沼津城が完成し、水野氏が入城した。沼津藩領がないので、伊豆に藩領にしてもよい村を韮山代官に問い合わせている。その回答の中で「土肥村は上り新米を献上する村なので、沼津藩領にすることはできない」と断っている。土肥金山があるので、幕府直轄領としておきたかったと思われがちであるが、実は違うということも判明した。
 新米は、海を使わず土肥から海岸線を北上、現沼津市西浦から三津まで運び、現伊豆の国市江間を通って韮山役所まで運んだ。これも海上輸送で遭難すると献上できないことを危惧したものである。
 江戸時代初期、金山奉行の大久保長安が現河津町と現下田市の境にある縄地金山の開発を行った。縄地は海岸近くの金山なので海上輸送が便利なはずなのに、産出、精錬を行った金も陸上輸送を行った。この輸送の道として、天城越えの道が開通したのである。
 現伊豆市湯ケ島まで峠を越え、現伊東市との境にある柏峠を越えて伊東へ運び、根府川往還を通って行った。江戸時代の帆掛け船による海上輸送はリスクが大きいので、大切な品物の運搬は陸上を使ったのである。 (橋本敬之・伊豆学研究会理事長)

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