<東京写真遺産>1972年・谷中の蛍坂 残し残せた江戸情緒

2020年10月26日 06時35分

(1)石垣と板塀に挟まれた細い蛍坂。左側には瓦屋根の住宅が並ぶ。名前は近くにホタルの名所があったことにちなむ

 全長約八十メートル、幅は人がすれ違えるくらい。そんな小さな坂にも名がある。蛍坂。着物の女性が下る先にはかつて、蛍沢と呼ばれるホタルの名所があった。
 一九七二年、多摩美術大三年だった林田廣伸さん(68)=東京都練馬区=が授業の課題で撮影した。結婚するまで暮らした台東区谷中の実家から歩いて十分。小学生のとき同級生に教わり「坂を知っていることが秘密っぽくて特別な感じ。わくわくしながら通った」。対照的に、坂の裏手にある寺院・加納院の森加奈子さん(52)は、「塀と崖に挟まれた狭くて暗い一本道で、怖かった」と振り返る。
 区によると、坂の道筋は江戸時代から変わらない。東京スリバチ学会の皆川典久会長(57)は、蛍坂を南北に挟む七面坂と三崎坂は高台の寺町と庶民が暮らす低地を結ぶ主要道路で、蛍坂はその抜け道の生活道路と推測する。

(2)反対方向を見ると人がギリギリすれ違えるほどの狭さ。塀沿いの樹木は現在も残る=1972年、いずれも林田廣伸さん撮影

 二〇〇九年まで二十五年にわたり、谷根千(やねせん)地区(谷中、文京区根津、千駄木)を地域雑誌に記録した作家、森まゆみさんは「上野の高台と(蛍沢の)湿地帯を結ぶ貴重な道路だった」と解説する。蛍坂を上った先の道は、桜の名所の上野と飛鳥山を結ぶ花見ルートとして知られ、人々が踊りながら通ったという。
 ほろ酔い加減の花見客が静けさを求めて坂に立ち寄ったかもしれない、と想像力を駆り立てられる。
 時を経て、石積み塀と板塀は擁壁と金網に替わり、写真の女性の左後方に階段が造られた。階段の下には、台東区が整備した谷中防災コミュニティセンターと防災広場「初音(はつね)の森」がある。

防災広場方面に下りる階段がつけられた現在の蛍坂。谷側には金属フェンスが設置されている((1)の場所から撮影)

 森さんらが発行した「地域雑誌 谷中・根津・千駄木其(そ)の二十七」(一九九一年)などによると、センターと初音の森の計約九千三百平方メートルは、元旗本の子孫が所有していた。蛍坂にせり出す木々は江戸から続く森で、防空壕(ごう)も残る。
 区によると、谷中地区は関東大震災や空襲の被害をあまり受けず、古い道筋や家が残った。元旗本の敷地が民間に渡らないよう地主に働き掛けたのは、地域の人々だ。森さんは「まちを大事にしよう、守ろうという意識が人々に根付いている」と話す。一方で古い家屋が隣接する谷中地区は、防災面で課題がある。出会った人は「広場ができて良かった」と口をそろえる。
 人々を守るための広場と、江戸から続く森と坂が時代を超えて共存する。
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文・畑間香織/写真・戸上航一
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