東京パラリンピックで金に導く 元Jリーガー、車いすバスケ日本代表コーチ 京谷さん

2020年10月28日 15時00分

自らの半生を振り返る京谷さん


 人はどん底からはい上がれる。車いすバスケットボール男子日本代表ヘッドコーチの京谷和幸さん(49)の半生は、それを教えてくれる。プロサッカー選手になる夢をかなえてすぐ、交通事故で下半身不随に。「人生の真っ暗闇」で出合った車いすバスケで選手として世界の舞台に立ち、300日後に開幕する東京パラリンピックでは指導者としてメダル獲得という新たな夢に挑む。「人は変われる」。その言葉は力強く響く。(中川耕平)
 1993年11月28日。間近に迫った結婚式の衣装合わせをするはずだった。早朝、乗用車を運転中に他の車を避けようとして電柱に衝突。以来、車いすが「足」になった。
 北海道出身。小学2年でサッカーを始め、強豪で知られる地元の高校では1年からミッドフィルダーのレギュラー。卒業後はジェフ千葉の前身・古河電工とプロ契約し、93年5月にJリーグ開幕を迎える。当時は血気盛んで「自分が一番」。自信も希望もあったサッカー人生は、半年後にあっけなく終わった。
 病院のベッドに横たわって2週間。足はしびれたまま。たたいても痛みを感じない。ある日、妻の陽子さん(48)が忘れていった日記を何げなく開いた。「脊髄がダメになっている」。ほどなくして、医師からも宣告を受けた。深夜の病室で一人、声を殺して泣いた。
 退院後、知人の紹介で千葉の車いすバスケチームの練習を見に行った。車いすがぶつかり合う迫力に尻込みした。後日、自身の結婚披露パーティー。恩師や友人たちは祝福してくれる一方、同情的だった。負けん気がのぞいたのか、思わず出席者の前で誓っていた。「車いすバスケで五輪を目指します」。ろくに練習していなかった上に、目指す舞台がパラリンピックであるとも知らなかった。引くに引けなくなった。

◆選手育成が使命

 目の色を変えて千葉のチームで練習した。最初は車輪を回す手のひらの皮が摩擦でむけ、何度も転倒した。でも「小さな自信」を積み重ねていくうちに「大きな光になって進む方向が見えてきた」。堅実な守備で頭角を現し、日本代表で欠かせない存在に成長。事故から七年後の2000年。シドニー・パラリンピックに出場し、パーティーでの「約束」を果たす。その後の3大会にも出た。

2008年北京パラリンピックの南アフリカ戦で、攻め込む京谷和幸さん=共同


 12年ロンドン大会を最後に引退し、日本代表のアシスタントコーチを経て、今年2月から現職。新型コロナウイルスの影響で東京大会1年延期、代表活動中断とまさかの事態に直面したが、来夏に向けて代表は慎重に再始動した。目標は日本最高の7位を上回るメダル獲得だ。東京大会の先も見据え「選手育成が自分の使命」と言い切る。
 コロナ禍での大会開催、スポーツの意義を問う声がある。京谷さんは信じる。
 「みんないろいろなものを背負って、困難に負けじと頑張っている。競技に全力な姿を見せるだけでもメッセージを送れる」
 もし、事故に遭わなかったら―。「サッカー選手としては20歳そこそこがピークだった。落ちぶれていたんじゃないかな」。車いす生活で「一人で生きているわけじゃない」と気付き、独善的だった己の未熟さを思い知った。支えてくれた家族や仲間がいる。来夏は恩返しの舞台でもある。

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