ノーベル文学賞/ルイーズ・グリックにみるアメリカ詩への誘い 江田孝臣

2020年11月2日 07時13分

『アメリカ名詩選』(岩波文庫)は、ローエルやプラス、ディキンスンを含む100編の詩を収める

 先月発表されたノーベル文学賞は、米国の女性詩人ルイーズ・グリックさん(77)が選ばれました。日本ではなじみの薄いアメリカ詩の味わいについて、米文学者の江田孝臣さん(64)に紹介してもらいました。
 今年のノーベル文学賞に決まったルイーズ・グリック=写真、ゲッティ・共同=は、同じ主題のもとに短い抒情(じょじょう)詩を連ねて1冊の詩集をつむぐ。内容はおおむね自伝的である。母、早世した姉、妹、夫との関係性の中で、自らの魂をじっと見つめる詩人だ。若い頃、拒食症を病んだためか、死の淵からのぎりぎりの生還がしばしば主題となる。
 このあたり、1世代前の告白派と呼ばれる詩人たちを思わせる。そのリーダーだったロバート・ローエル(1917〜77年)は、重度の双極性障害(躁うつ病)に苦しみ、生涯入退院を繰り返した。代表作「スカンクの時間」=原成吉著『アメリカ現代詩入門』(勉誠出版、写真(1))所収=では、精神エネルギーの枯渇(うつ)の予感におびえながら、若者たちのカーセックスをのぞき見するおのれの異常な精神状態を「おれの頭はまともじゃない」と自覚する。その一方で、生命力あふれるスカンク一家の生ゴミあさりをユーモラスに描き、自分の苦しみをわざと卑小に見せる。自分の恥部を客観化することで、読者を楽しませるのだ。そこが偉大だ。面白がる公衆の面前で裸をさらして自分も面白がる。これが詩人というものなら、詩人とは恐るべき蛮勇の持ち主だ。

(1)

 恥部をユーモラスにさらすと言えば、ローエルの教え子シルヴィア・プラス(1932〜63年)の詩「ラザロ夫人」を思い出す。美貌と知性を兼備したプラスは、名門女子大在学中、極度のうつ病に見舞われる。当時、有効な抗うつ剤はまだない。流行の電気ショック療法で病状はいっそう悪化し、自殺未遂事件を引き起こすが、幸いにも回復し復学する。死の淵から生還したのだ。
 「ラザロ夫人」は、死者ラザロを蘇生させたキリストの奇蹟譚(きせきたん)を踏まえる。女性版ラザロたる詩の話者は、復学初日に「芝居がかった真昼の生還」を果たすが、クラスメートの好奇の視線にさらされて「打ちのめされる」。だが、こういう場合、開き直りしか学校という社会を生き延びる手段はない。自分を「大げさなストリップショー」の舞台に立つダンサーに見立て、同級生たちに言い放つ。「傷跡(きずあと)の見物にも/…心臓の音を聞くのにも、お代を頂戴します/…たっぷり頂戴します/ひと言話すのにも、一回触るのにも/一滴の血にも…」(徳永暢三訳『シルヴィア・プラス詩集』小沢書店=絶版)。
 グリックは、自分の経験した苦境をローエルやプラスのように戯画に仕立てるわけではない。それは詩行の奥深くの曇りガラスにぼんやり浮かぶにすぎない。その点では19世紀のエミリ・ディキンスン(1830〜86年)の方に似ている。ディキンスンにも狂気の淵に立った経験を、ローエルやプラス同様、ユーモアをまじえた葬式の比喩で語る詩がある。「頭のなかで葬儀が行われているような感じだった」で始まり、「それから理性の踏み板が割れ/私は下へ下へと墜落した…」で終わる有名な340番の詩だ(新倉俊一監訳『完訳エミリ・ディキンスン詩集』金星堂、同(2))。脳の中で死んだ「理性」が鉛の棺桶(かんおけ)に入れられ、同じく擬人化された他の心的機能たちがお弔いをする、という身の毛もよだつ詩でもある。しかし、この詩は(よい意味で)あまりにも作り物に過ぎて、詩人の苦境の正体は、グリックの詩と同じく、霧の中だ。

(2)

 精神的危機は重苦しい主題で、そのままでは文学にならない。自分自身と距離をとり、ユーモラスに戯画化することによって、初めて文学になる。「文学とは何か」という難問の鍵が、ここにある気がする。
<えだ・たかおみ> 1956年生まれ。早稲田大学名誉教授。著書に『エミリ・ディキンスンを理詰めで読む』(春風社、2018年)、『「パターソン」を読む』(同、2019年)。

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