文明開化期から現代へ 思いを橋渡し 常磐橋、創建時の姿に復元

2020年11月8日 07時03分

東日本大震災で被災し、復元された常磐橋

 文明開化の時代、明治政府は近代都市の新たなシンボルとして、東京都心に13の石橋を一斉に建設した。その中で唯一、現存するのが東京駅近くの日本橋川に架かる「常磐橋」。東日本大震災での被災から9年ぶりに創建時の輝きを取り戻す復元工事が完成した。

復元された親柱

 欄干を支える親柱は、白亜の大理石。鋳物製の手すりは、植物の模様がかたどられている。昭和期の改修で親柱にはコンクリートが塗られ、手すりは別のデザインのものに付け替えられたが、浮世絵や写真を参考に、本来の姿を再現した。
 「本当に美しい橋だ。明治の人のすごさが分かる」。橋の研究家で、東京都道路整備保全公社橋梁(きょうりょう)担当課長の紅林章央(くればやしあきお)さん(60)は先月下旬、工事が完了したばかりの常磐橋を見学し、華やかなデザインに改めて感心した。
 一八七七(明治十)年に完成した、長さ二八・八メートル、幅一二・六メートルのアーチ橋。庭園にあるものを除けば、都内に現存する最古の石橋。橋上の敷石は左右の端だけ色が違う。今は歩行者専用だが、創建当時は人は端、馬車と人力車は中央と、いち早く「歩車分離」の思想を取り入れていた。
 紅林さんによると、石橋造りの技術は、幕末の九州で発達した。キーマンの一人が、薩摩藩家老の調所広郷(ずしょひろさと)。西郷隆盛を登用した藩主の島津斉彬(なりあきら)と対立したため、歴史ドラマの悪役としておなじみだが、優れた行政マンでもあった。調所は天候に影響されない道路網の整備を唱え、鹿児島市と主要都市を結ぶ街道に、頑丈な石橋を次々と架けた。
 明治の東京に多くの石橋が架けられたのは、新政府に「交通インフラの重要性」を理解する薩摩藩出身者が多かったからだと、紅林さんは見ている。

東日本大震災で被災する前の常磐橋

 老朽化していた橋は、東日本大震災の揺れでアーチが変形し、崩落の危険が生まれた。管理する千代田区はできるだけ当時の材料、技術を使い、耐久性を保ちながら文明開化期の姿に戻す復元工事に着手した。
 橋の解体で、バラバラになった石には池田藩(岡山県)の刻印があった。池田藩が築造した江戸城小石川門の石垣の石を再利用していたことが分かった。
 形がふぞろいだったため石の積み直しに苦労した。新型コロナの影響による作業中止や部材調達の遅れなどもあり、二〇一八年の完成を目指したスケジュールは遅れた。当初、十三億円と見込んだ工費も二十億円に増える難工事だった。

修復工事の様子 (紅林章央さん撮影)

 実は、常磐橋の危機は、これが初めてではない。関東大震災で被災し、復興事業で五十メートルほど下流にコンクリート製の新しい橋が造られ、「不要」となったのだ。手を差し伸べたのは、実業家の渋沢栄一。渋沢の支援で常磐橋は一九二八(昭和三)年、国の史跡となり、修復が実現した。
 千代田区は、本年度いっぱいかけて隣接の「常盤橋公園」を再整備しており、橋を渡れるのは公園が完成してからとなる。東日本大震災から十年の節目となる二〇二一年は、渋沢栄一が主人公のNHK大河ドラマ「青天を衝け」が放送される。荒波を乗り越え、再生なった明治維新のシンボルとして注目していきたい。

◆「ときわばし」 日本橋川に3つ

江戸時代の浮世絵。木造の橋と常盤橋門が描かれている

明治時代の浮世絵に描かれた石造りの常磐橋(いずれも紅林章央さん提供)

 日本橋川には、三つの「ときわばし」が並んでいる。
 「常盤橋」は、関東大震災の復興事業で1926年に完成。一見、石橋に見えるが鉄筋コンクリート造りで表面に石が貼ってある。鋼鉄製の「新常盤橋」は88年に完成した。
 最も古い「常磐橋」は、江戸城・大手門へ向かう外堀の正門前に木造で架けられた橋が、石造りに架け替えられたとき、「常盤」から部首が「石」の「常磐」になった。近くでは、2027年度完成を目指し、高さ390メートルの日本一の超高層ビル「トーチタワー」の建設が進められている。
 文・浅田晃弘/写真・市川和宏
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