<よみがえる明治のドレス・2>皇太后と尼、特別な絆 京都・大聖寺に贈られた昭憲皇太后の大礼服

2020年11月12日 07時07分

四季折々に仏前を飾る打敷。大礼服もかつて打敷として利用された=京都市上京区の大聖寺で

 修復プロジェクトが進む明治天皇の后(きさき)、昭憲(しょうけん)皇太后(美子(はるこ)皇后)の大礼服は、皇室とゆかりの深い尼門跡(あまもんぜき)寺院の大聖寺(だいしょうじ)(京都市上京区)に大切に保存されていた。昭憲皇太后が自ら率先して進めた洋装のシンボルでもあった大礼服が大聖寺に下賜されたのはなぜか。背景には、明治維新で皇女の出家が禁止され、さらに遷都で遠く離れても、変わらぬ皇室と尼門跡の絆の物語があった。

尼門跡寺院の「大聖寺」

読経する大聖寺尼僧の乾亮文さん。下賜は「特別な思し召し」と語る=京都市上京区で

 第二十六代門跡の石野慈栄(いわのじえい)尼(一八八七〜一九六六)様は、昭憲様に大変かわいがられたと、うかがっています」。修復プロジェクトの実行委員でもある大聖寺尼僧の乾亮文(りょうぶん)さんは、同寺院に伝わるエピソードを語り始めた。
 慈栄尼は、明治天皇の幼少期の遊び相手だったとされる公家の石野基将(いわのもともち)の娘で、わずか六歳で出家して大聖寺に入ったとされる。
 日清戦争が終わり、内国勧業博覧会観覧のため京都御所に滞在中の明治天皇、昭憲皇太后と初めて面会したのは一八九五(明治二十八)年四月で、数えで九歳の時だった。
 明治天皇は、庭を見るため小走りに歩く尼を覗きみて『小尼(こあま)が行く。をかしをかし(かわいい)』と何度も口にし、土産に治永(はるなが)という名の市松人形を、別の日に御所に招いた昭憲皇太后は『度々(たびたび)参る様に』と述べ、千代子様という名の人形を与えたという。
 皇太后が病気療養のため沼津御用邸に滞在した際、尼が訪れると、「沼津は初めてか」と、女官に御所の馬車で羽衣の松などを案内させた。その後も沼津ではよく面会したという。
 皇室と尼門跡たちを巡る環境は、明治維新で一変した。一八六九年に御所は東京に移り、皇女の出家もなくなり、尼門跡たちと皇室の関係は引き離された。しかし、尼門跡たちは折々の面会など、皇室とのつながりを大切にしてきた。一方、すでに着ることのなくなった皇族の召し物を尼門跡寺院に贈るのは珍しいことではなかったが、大礼服は別格だった。
 皇太后が初めて大礼服を着用した八七年生まれで、幼くして母と死別した慈栄尼と、激動の時代を気丈(きじょう)に生きた昭憲皇太后。「大聖寺が大礼服を御下賜されたことは、慈栄様への特別な思(おぼ)し召しであったのではないか」。亮文さんは、今もそう感じている。

◆打敷に裁断 仏前彩る

大礼服の裏地に由来が記載された墨書。2枚に裁断されたトレインの上半分=明治神宮ミュージアムで

 「従(より)皇后宮 明治四十四年孟夏(もうか)御寄附貮枚(にまい)之内 岳松(がくしょう)山大聖寺什(じゅう)」。大聖寺に保存されていた昭憲皇太后の大礼服のトレイン(引き裾)の裏地の墨書には、こう記されていた。
 大礼服は昭憲皇太后より一九一一(明治四十四)年夏に大聖寺に下賜された後、トレイン(長さ三・四メートル、幅一・七メートル)を二枚に裁断されたと解釈されてきた。裁断は仏前を飾る正方形の打敷(うちしき)にするためとみられるが、下賜された時期が〇九年七月であると、大聖寺の日記に記載されていることが最近、新たに判明した。墨書に記載されていた一一年夏について、亮文さんは「大礼服が打敷にされた時期」と推測する。
 同年九月、第十九代門跡で後水尾(ごみずのお)天皇第十一皇女の元昌(げんしょう)尼の没後二百五十年の法要が行われた。元昌尼の二百五十年遠忌(おんき)にあたり、大礼服を打敷として祭壇に飾ることは、伝統的な供養の形であった。
<大聖寺> 「御寺(おてら)御所」と呼ばれ、北朝第四代の後光厳(ごこうごん)天皇の後見役を務めた無相定円(むそうじょうえん)尼(日野宣子)が創建した臨済宗の寺院。皇族や公家出身の女性が代々住持(じゅうじ)(住職)を務めた尼門跡(もんぜき)寺院の一つで、江戸時代後期の24代の門跡までは天皇の皇女だった。山号を「岳松(がくしょう)山」という。関西の文化人らでつくる大聖寺文化・護友会(ごゆうかい)の初代名誉総裁は秋篠宮妃紀子さまが務める。
 プロジェクトの続報は、随時掲載します。
 文・吉原康和/写真・佐藤春彦、川上智世
 ◆紙面へのご意見、ご要望は「t-hatsu@tokyo-np.co.jp」へ。

関連キーワード

PR情報

TOKYO発の新着

記事一覧