新川の歴史、絵図で学ぶ 八千代の郷土博物館で企画展 23日まで

2020年11月12日 07時37分

新川と古川が交わる様子が描かれた絵図(手前)などが展示された企画展=いずれも八千代市立郷土博物館で

 八千代市を南北に流れ、市のシンボルともいわれる新川の歴史をひもとく同市立郷土博物館の企画展「水に挑む〜古川から新川へ〜」が開かれている。江戸時代、河川を建設する「掘割普請」が享保、天明、天保期と3度にわたり幕府の事業として行われ、新川が現在の姿になったのは昭和時代。古い川筋である古川からの変遷を絵図などで紹介した。(保母哲)
 新川の正式名称は「印旛放水路」。南側は現在、花見川と名前を変えて東京湾につながっている。古くは新川大橋一帯にあった「阿蘇沼」から、古川を通して印旛沼へと水が流れ込んでいたとされる。
 新川の掘削普請が行われたきっかけは、江戸時代初期の「利根川東遷事業」。東京湾に注いでいた利根川の流れを太平洋に変えたため、増水時には印旛沼に流れ込むようになり、古川一帯は何度も水害に見舞われた。
 同博物館によると、古川とは別に新川を掘削し、花見川につなげて東京湾へ水を流す掘割普請は、幕府の事業として享保期に工事を進めたものの、資金不足などで中断。続く天明期の掘割普請で幕府は、江戸や大阪の商人からも資金調達した。

現在の新川(上方)と花見川(下方)が隔てられていたことを示す絵図。その間には高さ約15メートルの台地があった

 天保期には五藩の大名に命じて工事を実施。新川と花見川境にあった高さ約十五メートルの台地が難所だったが、一部開削にこぎつけた。こうした工事で、古川は次第に姿を消したという。
 明治時代以降も洪水が相次いだため、一九四六(昭和二十一)年に国営印旛沼手賀沼開拓事業がスタート。水資源開発公団(当時)が拡幅工事を引き継ぎ、花見川へ流す大和田機場(きじょう)が六六年に完成して現在の新川になっている。
 今回の企画展では、こうした新川の歩みを、天明期の「御普請掘割絵図」、新川と古川の川筋が描かれた天保期の「堀田備中守(びっちゅうのかみ)領分印旛郡村上村絵図」、長さ約七・七メートルの巻物で「五頭(ごかしら)」と呼ばれた五藩の大名を動員したことを示す「五頭堀場絵図面」など計約三十点で解説した。
 また、遺跡からの出土品や新川周辺の伝説、文献を基に作られた「印旛沼出現怪獣」の模型なども展示。同博物館の野中政博・資料調査研究員は「新川が生まれた経緯を多くの市民が知らないだけに、この企画展が新川を見つめ直す機会になってほしい」と話している。
 企画展は二十三日までで、原則月曜休館。開館は午前九時〜午後四時半。入館無料。問い合わせは同博物館=電047(484)9011=へ。

関連キーワード

PR情報

千葉の最新ニュース

記事一覧