三島由紀夫没後50年 楯の会1期生、元編集者…ゆかりの人々を訪ねて

2020年11月25日 17時52分

三島由紀夫の特設コーナーが設置された書店=東京都千代田区の三省堂書店で

 作家の三島由紀夫が自衛隊市ケ谷駐屯地で割腹自殺してから半世紀。書店に特設コーナーが設けられたり関連本が続々出版されたりと、その世界観はいまも人々の関心を引きつけてやまない。50年目の節目に当時の三島をよく知る人々を訪ね、思い出話を聞いた。(小野おさむ、写真も)

三島事件 1970年11月25日、作家の三島由紀夫(本名・平岡公威(きみたけ))が、自ら組織した民兵組織「楯の会」のメンバー4人とともに自衛隊市ケ谷駐屯地に赴き、東部方面総監・益田兼利を監禁。バルコニーで自衛官らに向かい改憲のためのクーデター参加を呼び掛ける演説をした後、森田必勝(まさかつ)とともに割腹自殺を遂げた。「楯の会事件」とも呼ばれる。

 楯(たて)の会 1970年、日米安保条約の自動延長に向けて、左派学生らの暴動が起きたとき、警察力で鎮圧できず、自衛隊が治安出動するに至った場合に、その補完勢力となるように三島が68年に結成した民兵組織。「民族派」と呼ばれる保守層の学生らで結成された。

 ◆三島と共に自決した学生・森田必勝の友人で「楯の会」1期生の男性(74)

 第一印象は「怖い人」
 「三島と初めて会ったのは1968年3月1日」。男性は、保守系の学生からなる日本学生同盟(日学同)の一員として陸上自衛隊滝ケ原駐屯地(静岡県御殿場市)に体験入隊するため、新宿駅で他のメンバー約20人と共に三島と待ち合わせた。集合時間に遅れて来たメンバーを三島は厳しく叱りつけた。「怖い人だな。この先、こんな怖い人と過ごすのか…」。そんな印象を抱いた。
 御殿場に向かう小田急線の車内で、男性は雰囲気を和らげるため、三島に「(ベストセラーとなった)潮騒くらいは読んでいますが、先生の作品は難しくてなかなか読み進められません」と冗談めかして言った。三島は大笑いして「だから君たちを呼んだんだ」と返した。三島は文学青年を求めていなかった。男性は「楯の会のメンバーは総じて三島文学を読んではいなかった」という。
 消灯後の部屋で
 体験入隊中のある夜の消灯後、2段ベッドの部屋で、三島の枕元だけ明かりがこうこうとともっていた。男性が気になって見ると、三島はものすごいスピードで原稿を書いていた。「非常にお金にきれいな人だったから、学生に負担させず楯の会の費用を賄うため、原稿を執筆していたのではないか」と振り返る。
 忘れられない思い出は風呂場でも。三島は学生たちの腹の肉をつかみ、「1cm、2cm、3cm」と皮下脂肪の厚さを測ってみせた。三島に「俺の腹を触ってみろ」と言われて男性が触ると、ボディービルで鍛えた三島の脂肪は紙のように薄かった。
 「政治的発言をするならそれなりの責任を」
 68年11月のある日、男性は日学同の集会での講演を依頼するため、白亜の豪邸で知られる東京都大田区の三島邸を森田と訪ねた。三島はその時、丸山真男(まさお)らリベラル派の政治学者の名前を挙げ「政治を論じる以上、警察に守られて逃げるのではなく、バリケードの中に入って学生と話し合わなければならない」と非難した。続けて「自分も文士として政治的な発言をする以上、それなりの責任をとるつもりだ」と覚悟を語った。
 男性は「三島さんは森田を気に入っていた。日学同での講演も『君(森田)が委員を務めているなら引き受けよう』と語っていた」と回想する。
 70年9月初め、男性は銀座のドイツ料理店で、三島と2人、ソーセージをつまみにビールを飲んだ。政治的な話はせず、就職が決まったことを報告した。
 三島から(自身の切腹シーンが話題となった映画)「人斬り」の、どこが印象に残ったか尋ねられ、「迫真の太刀回りでしたね」と返すと、「切腹はどうだったか」とさらに聞かれたという。

防衛省の敷地片隅に立つ市ケ谷記念館。塔屋正面に三島由紀夫が自衛隊員へ決起を呼び掛けたバルコニーが張り出す

 「自分は生き残り」の負い目
 男性は、三島が自決した理由について、劇作家でもあった三島が自らを主人公とした劇のクライマックスを演じたとする見方は「的外れ」としたうえで、「同世代が特攻で玉砕したのに自分は生き残ったという思いが三島さんにはあった」と指摘する。
 「三島さんは真面目な人だった。あの事件はその証明でもある。自衛隊に迷惑をかけ世間を騒がせた責任を、命を絶つことで取った」と語気を強めた。

 ◆最後の晩餐ばんさんに訪れた新橋の鳥料理店「末げん」のおかみ、丸武子まるたけこさん(78)

 事件前夜、緊張の座敷
 三島は事件前夜、新橋駅烏森口近くの鳥料理店「すえげん」を、楯の会メンバー4人を連れて訪れた。三島が幼いころから家族に連れられて食事をとった店。丸さんはあいさつをしようと座敷に向かった。

最後の晩餐(ばんさん)の席で三島由紀夫が座った位置を示す「末げん」(事件後に改装)の丸武子さん=東京都港区新橋で

 戸を開けると、室内は張り詰めた様子。三島は物思いにふけっていた。緊張した空気を察した丸さんは、あいさつもままならず座敷を後にした。
 「あの世からでも来るか」
 帰り際、丸さんが玄関で見送り、「どうもありがとうございました。またおこしください」と声を掛けると、三島は「また来いって言われてもなぁ。こんなきれいなおかみがいるんなら…あの世からでも来るか」。丸さんは「冗談を言っているのか分からず、あっけにとられました」と振り返る。

 ◆新潮社の元編集者・小島喜久江さん(92)

 「人の気持ちをくみ取るのが上手な人」
 小島さんは三島の代表作「金閣寺」のころから創作を手伝ったという。出版業界では三島は「女性嫌い」と聞いていたので不安だった。「でも、そんなことはありませんでした。三島さんは人の気持ちをくみ取るのが上手な人で、とにかく親切。編集者を困らせないように気遣っていました」
 自宅でのパーティーに招かれた日、三島に「ダンスをしよう」と誘われ、一緒に踊った。「三島さんはダンスはあまり上手ではなかったけど…」と楽しそうに回想した。忘れられぬ思い出だ。
 事件の日、小島さんは午前10時半ごろ三島邸を訪れた。原稿は厳重に封筒に入れられおり、いぶかしく思った。編集部に戻り封を開けると、聞いていたのとは違う「豊饒の海」4部作の最終巻「天人五衰」の最終回の原稿。戸惑った。

編集にたずさわった「天人五衰」を手に思い出を語る小島喜久江さん=渋谷区代々木の自宅で

 テレビではニュースが流れていた。「三島さんの名前をかたる偽者と思った」と小島さん。後日、先輩編集者から「なぜ気づかなかったのか。僕なら気付いたかもしれない」と何度も言われた。
 実は三島から、事件の少し前に「君は早起きかい?」と尋ねられていた。事件が起きたのは午前11時ごろ。「三島さんは何時に原稿を受け取りに来させるか考えていたんだと思います」。三島は前日、10時半ちょうどに自宅に取り来てほしいと小島さんに連絡している。
 小島さんは「三島さんは、老いるよりも若いうちに死にたいと考えていた。(幼いころから体が弱かった三島は)男は強くなければならないという思いも強かった」と指摘する。
 小島さんは事件の後、三島の母、平岡倭文重しずえに会った。倭文重は「(事件のことを息子から)何も話してもらえなかった。あの子は(文学も政治行動も)やりたいことをやり遂げたのだから、仕方がない。気持ちに添ってあげたい」と母親らしくかばったという。
 「三島さんという希少な人物に出合えて幸せな人生でした」と小島さん。「(人間の生死を描き)作家を死にまで追いやる文学の怖さも知りました」と遠い目で語った。

 ◆サンデー毎日の元デスク・徳岡孝夫さん(90)

 高みに上り詰めたからこそ…
 徳岡さんは、三島事件の日に現場にいた数少ない記者の1人だ。三島の信頼を得て、事前に知らされていた。
 徳岡さんはバンコク特派員時代、三島に現地で会っている。その時に貸した和漢朗詠集の一節が、最後の大作「豊饒ほうじょうの海」第4巻のタイトルになったのではないか、と推測する。「初めは『月蝕げっしょく』というタイトルにする予定だったと聞いたことがあります。ですが『天人五衰てんにんごすい』の方がふさわしかったと思う。天女でさえ、衰えるときに美しくない姿を見せる。まさに三島さんに重なる」
 「三島さんはノーベル賞の呼び声が高く、米雑誌『ライフ』に特集が組まれ、まさに高みに上り詰めていた。そういう人は、もしかしたら、その高みから飛び降りたくなるのかもしれない」と事件について思いを巡らせた。(敬称略)
 <取材後記>
 ゆかりの人たちを訪ね、浮かび上がったのは、ちゃめっ気があり、気配りを欠かさず、責任感の強い三島像だった。いま、頭を空にして、三島作品をもう一度読み直したい。そう思った。(理)

関連キーワード

PR情報

文化の新着

記事一覧