<英国王室の舞台裏>(2)ウィリアム3世 名誉革命 立憲君主制の立役者

2020年11月26日 07時45分

作者不詳「ウィリアム3世」1695年頃 油彩/カンヴァス ロンドン・ナショナル・ポートレートギャラリー蔵(C)National Portrait Gallery, London

◆関東学院大・君塚直隆教授が解説

 馬上でりりしく軍勢を指揮するこの人物は、ステュアート王朝五代目の君主ウィリアム三世(在位一六八九~一七〇二年)。史上名高い「名誉革命(一六八八~八九年)」でイングランドに立憲君主制を築いた、この国の救世主といっても過言ではない。
 エリザベス一世の死後、スコットランド国王がイングランド国王を兼ねるようになると、イングランド政治に大きな発言力を有するようになっていた議会が歴代の王たちと衝突をするようになる。特に対立の激しかったチャールズ一世は、清教徒革命(一六四二~四九年)で議会軍に敗れ、史上初めて民衆の目の前でクビをはねられてしまった。
 その後、王政復古(一六六〇年)により王朝は復活したが、チャールズの次男ジェームズ二世が再び議会主流派と対立し、名誉革命となる。その立役者がジェームズの甥(おい)(姉の子)にして娘婿(長女の夫)でもあったウィリアムだった。彼は妻のメアリー二世とともに共同統治者としてこの国の王に収まった。そのウィリアムも即位後、早々に議員たちと衝突する。
 もともとオランダで生まれ育った彼は、徐々に大国になりつつあったイングランドが、いつまでも「島国根性」にしがみつき、ヨーロッパ大陸の大事に関わろうとしないことにいらだちを感じていた。当時はフランスの「太陽王」ルイ十四世が、その勢力を東方へと急激に拡大しようと野心満々だった。ルイが強大な帝国を築いてしまった後では遅すぎる。野望の芽は青いうちに摘み取っておかねば一大事になる。ヨーロッパに「勢力均衡(バランス・オブ・パワー)」という考え方が登場したのはまさにこのようなときだった。
 ウィリアム三世の説得についにイングランド(さらにはスコットランド)の政治家たちも折れた。両国はハプスブルク家やオランダなどとともに、ルイの野望をくじく戦争に乗り出した。それがこの絵に描かれる「九年戦争(一六八八~九七年)」なのである。ルイは領土拡張をあきらめたばかりか、ウィリアムのイングランド王位も認めざるを得なかった。
 イングランドをヨーロッパの一流国に育て上げたのが、このウィリアム三世にほかならない。しかし「外人王」として彼の人気がいまひとつなのは少しかわいそうな気がする。  (君塚直隆=関東学院大学国際文化学部教授)
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