<ふくしまの10年・追われた土地の記憶>(3)混乱の戦後 福島帰郷

2020年11月26日 08時16分

1935年に発行された「目黒区全図」などによると、万有製薬は目黒川を挟んで、ホテル雅叙園東京の対岸あたりにあった=東京都目黒区で

 一九四五年春、東京の市街地は米軍の空襲によってほぼ焼け野原になる。三月には東京大空襲で下町を中心に十万人以上が犠牲になった。福島から上京し、皇居を守る特別消防隊の消防士として働いていた加藤倉次さん、君代さん夫婦が住んでいた目黒区の下目黒周辺への攻撃も四月から五月にかけて、激しさを増す。
 「もう防空壕(ごう)に行くのも遠いからねえ。めいっぱい走って行って、真っ暗な大きい防空壕に入っていました。帰ってきたら一つも何にも残っていなかった。バラック作って暮らしておりました」。君代さんが半生を語った録音テープには、空襲で焼け出された時のことも語られている。
 その年の八月十五日、天皇がラジオで日本の敗戦を国民に告げる。「重大放送はバンユウセイヤクショってとこがあるんです。その広場に町内の皆さんが集まるように言われて天皇陛下よりありがたいお言葉で今日からもう敗戦ですよっていうことなんです。みんな泣いてしまいました」(テープから)
 玉音放送を聞いたバンユウセイヤクショについて、目黒区の八雲中央図書館のレファレンス(調査担当部署)が何日かかけて資料を探し出してくれた。万有製薬は、米国の製薬会社と合併し今はその名をとどめていない。社史によると、戦時下、目黒川近くに三つの工場があり、四五年三月からペニシリンの製造に着手した。五月の空襲では壊滅的な被害を受けたが、敗戦までには部分的な再建が図られていたという。
 戦後の混乱と食糧難の中、加藤夫妻は福島に帰る。「田舎に帰ってきたって何にも仕事がなかったです。そいでもっていい話が飛び込んできたんです」。津島村(現浪江町津島地区)に入植する開拓団ができるという知らせだった。
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