人間の土地へ 小松由佳著

2020年11月29日 07時00分

◆混乱のシリアに生きる民
[評]小松成美(作家)

 人間は、生まれる時代や場所を選べない。それを人は、時に「運命」と呼ぶ。あらがうことのできない時の流れの中でも、人は意思を持ったなら、目指す場所へ向かい、たどりつくことができる。著者は、誰よりも強い意思を持ち、自ら望んだ土地に進み、そこに立った人である。
 二〇〇六年、日本人女性として初めて八六一一メートルという世界第二位の高峰「K2」の登頂を果たした彼女は、成功したものの下山で生死の境目を歩みながら帰還した。登山という鮮烈で過酷な経験を「肩書」にして生きることをしなかった彼女は、二年後、フォトグラファーとなってユーラシア大陸の草原や砂漠の旅人となる。運命に導かれるようにシリアという、その距離以上に果てしなく遠い国に心引かれていくのだ。
 K2の頂上は、彼女にとってかけがえのない経験をもたらした地であったが、シリアは、彼女の心を掴(つか)んで離さなかった。照りつける太陽の下、遊牧民が暮らす異境こそ、人が神とともに生き、文化を培い、自然と家族を慈しむ人間の土地だった。
 本書は地球上で最も深刻な混乱に遭っているシリアを愛した著者の内省的な告白と、内戦の地の人々の姿を綴(つづ)ったルポが一体となった唯一無二のノンフィクションである。
 美しいシリアでの異文化への憧憬(しょうけい)、後に夫となる青年との恋、結婚を反対する両親との確執と雪解け、国を追われた家族への思い、政治犯となり行方不明のままの義兄への愁い、難民となり八王子で暮らすことになった夫の絶望とそれでも続く日々の生活。戦闘の最前線からは離れ、人々の暮らしや、民族の根底にあるものを丁寧に描くこの書は、日本人にとって未知の価値観を繰り返し教えるものだ。
 静かに語りかけるような筆致で彼女は書いている。「シリア人が“故郷”と呼んでいるのは、土地そのものよりも、むしろ土地に生きる人の連なりだ」と。荒廃するシリアとそこで生きる民を主題に撮影を続けてきた著者のしなやかさ、温良さには、心が震えてならない。
(集英社インターナショナル発行、集英社発売・2200円)
1982年生まれ。フォトグラファー。『オリーブの丘へ続くシリアの小道で』

◆もう1冊

桜木武史著『シリア 戦場からの声』(アルファベータブックス)

関連キーワード

PR情報