<ふくしまの10年・追われた土地の記憶>(5)父も母も優しかった

2020年11月28日 07時55分

放射性物質を含む土などを積み、福島県浪江町内の常磐道を行き交うダンプカー=2020年6月

 戦時下の東京で、皇居を守る特別消防隊の消防士として働いた加藤倉次さん、君代さん夫婦の戦争の記憶を、娘の原田幸子さん(64)は断片的に聞いている。
 倉次さんは東京で働く前の二十代前半に中国で従軍していた。「ワニが底にいる川を泳いで渡った。ワニに襲われた戦友もいる」と話していたという。「二十歳のころの戦地に行くのを見送られている写真と、何年か後の写真では表情が全く違っていて苦しくなった」と幸子さんはいう。
 幸子さんの姉が病気で輸血が必要になった時、倉次さんは戦地でマラリアを患ったので輸血できなかったという話も聞いた。
 君代さんは、浪江町津島地区での厳しい暮らしの中で、空襲で使われた米軍の爆撃機B29のことをよく口にしていたという。「父が出稼ぎに行き、一人で農作業していた時はつらかったんでしょう。『おれの背中に飛行機落ちてくれないかな』と漏らしていました」
 倉次さんは、東北自動車道の矢板インター(栃木県、一九七三年供用開始)建設工事などに働きに行っていた。出稼ぎは、葉タバコ栽培を始めて一定の収入が得られるようになるまで続いたという。
 原田さんは、苦しい生活の中での父母の優しさも覚えている。
 「母は、私がおなかをすかせているとサツマイモの畑に連れていって『ここ掘ってみ』と言って、掘ったイモはふかしてくれた。五右衛門風呂が壊れた時には父がぱっと直してくれた。手品みたいだった」
 二〇一一年三月の東京電力福島第一原発事故で、夫婦は福島市に避難し、その後、相次いで亡くなった。津島地区は高濃度の放射能汚染で帰還困難区域に指定され、いまだ帰れぬ場所となっている。
 ◇ご意見はfukushima10@tokyo-np.co.jpへ

関連キーワード


おすすめ情報

ふくしまの10年の新着

記事一覧