<文学碑の散歩道>島崎藤村 詩人から小説家へ 9歳で勉学のため上京

2020年11月28日 08時17分

島崎藤村旧居跡の碑=新宿区で

 島崎藤村(一八七二〜一九四三年)は旧中山道・馬籠宿(二〇〇五年に当時属していた長野県山口村が越県合併し、岐阜県中津川市へ編入された)の旧家に生まれ、九歳の時に勉学のため上京して銀座の泰明小学校に通った。上級に、後年知り合って文学活動を共にする北村透谷がいた。学校前の一角に、二人の名前を並べて「幼き日こゝに学ぶ」と記した記念碑が立っている。
 藤村は自伝的作品「生立ちの記」の中で「数寄屋河岸にある小学校」に在学した頃を回想し、「私は一方に炭屋の子息さんと席を並べ、一方には時計屋の娘やある官吏の娘などと並んで腰掛けました」と書いている。
 藤村はまず詩人として世に出た。「まだあげ初めし前髪の/林檎のもとに見えしとき」や「小諸なる古城のほとり/雲白く遊子悲しむ」などの詩句は広く知られる。一九〇四年に「若菜集」「一葉舟」「夏草」「落梅集」の四詩集を一巻に収めた「藤村詩集」を刊行し、序文で「遂に新しき詩歌の時は来りぬ」と高らかに宣言した。
 一八九九年から六年間長野県の小諸義塾で教師を務めた。その頃から興味が散文に向かい、地元の人々や自然を題材にした小品集「千曲川のスケッチ」を書いた。
 小諸義塾を退職して帰京した後、西大久保(現在の新宿区歌舞伎町)の家で長編小説「破戒」を書き上げる。職安通りにある旧居跡の石碑は細長い山形をしていて、鉄柵で厳重に囲まれている。ここは名作を生んだ記念すべき家だが、三人の娘を相次いで失うという不幸に見舞われたこともあってか、一年半後には浅草へ転居した。

◆音楽に関心深く

春陽堂版の「藤村詩集」

 島崎藤村は音楽に関心が深く、二十代の一時期、東京芸大音楽学部の前身に選科生として籍を置いたことがある。四十代でパリに滞在していた時にはドビュッシーによる声楽のピアノ伴奏や楽団を指揮したのを聴き、バイオリンの巨匠イザイの演奏会にも足を運んだ。また、日本音楽著作権協会(JASRAC)と最初の著作権信託契約をしたのも藤村だった。

関連キーワード

PR情報

東京の新着

記事一覧