<東京写真遺産>1961年11月・勝鬨橋 跳ねる通学路 遅刻との闘い

2020年12月1日 06時22分

中央の可動部が70度まで上がった勝鬨橋。手前には木造船が写っている=1961年11月、福岡延明さん撮影

 空に向かってハの字に跳ね上がった勝鬨(かちどき)橋(中央区)。多いときは一日五回開き、隅田川を上って大小の貨物船が行き来した。管理する東京都によると、橋は一九四〇年六月に完成。輸送手段が船や鉄道から自動車に代わるにつれて開く回数も一日三回、一回と減り、七〇年十一月を最後に開かなくなった。
 写真は読者の福岡延明さん(79)=八王子市=が六一年十一月のある朝、撮影した。ラジオで橋がいずれ開かなくなると聞き「写真に残しておかなきゃ」と思い立ち、当時住んでいた三鷹市から日本橋兜町の証券会社へ出勤する前に立ち寄った。「橋が下りて信号が赤から青に変わった途端、わーっと一斉に車が動きだす光景に感動した」と振り返る。
 そこからさかのぼること約十年。「橋が上がらないように」と、毎朝願っていた少年がいた。黒野富太郎さん(83)=中央区。家がある月島から、隅田川を越えた築地にある中学校に登校する際、橋を渡るか、少し遠回りになる佃の渡しに乗るかを選ぶのが、悩みの種だった。
 運悪く橋が上がると十五〜二十分も待たないといけないため、何回も遅刻した。無情にも上がっていく橋板から、ほこりやたばこの吸い殻などのゴミが、最前列で待つ黒野さんの目の前に落ちてきたという。大雪が降った日には、緩やかに傾斜する全長二百四十六メートルの橋をスキー板で滑る大人たちがいた。「うらやましかったなあ」

ほぼ同じ地点から撮影した現在の勝鬨橋。水上バスが航行する隅田川の両岸には遊歩道が整備され憩いの場となっている

 六三年版の住宅地図を見ると、隅田川沿いの月島側には倉庫が立ち並び、築地側には日本冷蔵(現・ニチレイ)、水産加工業の日魯漁業(現・マルハニチロ)の工場がある。倉庫街には今、タワーマンションがそびえ立つ。
 橋には、かつて道路の真ん中を走っていた都電の架線柱が残る。橋のたもとにあった築地市場は豊洲へ移転し、跡地は現在、東京五輪・パラリンピックの選手や関係者を輸送するバスの車両基地となっている。川辺には遊歩道が整備され、夜は橋がライトアップされる。
 黒野さんによると、川沿いの住宅は七〇年代ごろまでは二階建てがほとんどだったという。黒野さんは、タワマン群を仰ぎ見ながら「隣の声が聞こえず、誰が住んでいるか知らないような高い建物が増えてしまった」と残念がる。
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 文・畑間香織/写真・戸上航一
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