<ふくしまの10年・追われた土地の記憶>(8)中学を出たら出稼ぎ

2020年12月3日 07時39分

炭窯を作る開拓民たち。後列左から2人目が鎌田毅さんの父、宮四郎さん=1947年ごろ、葛尾村で(日下貢さん提供)

 鎌田毅さん(77)も、南條俊治さん(91)=第七回に掲載=と同じ葛尾村の大笹地区に自宅がある。東京電力福島第一原発事故で避難を余儀なくされて、移り住んだ田村市の家と行き来する日々だ。
 満州(現中国東北部)で生まれた。現地で桃山開拓団の団長だった祖父は一九四五年の敗戦直後、自衛のための武器を取りにいこうとして、撃たれて亡くなった。「父親の背中におぶさっていて祖父が横たわっている姿を見たのは覚えている」
 敗戦まで満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍の訓練所があり、敗戦後は満州からの引き揚げ者の救済拠点となっていた、茨城県の内原(現水戸市)での記憶も、おぼろげながらあるという。「壊れた飛行機みたいなのがあって部品で遊んだ」。内原で紹介されて桃山開拓団の仲間とともに鎌田さん一家が開拓に入ったのが葛尾村だった。四六年のことだった。
 最初は木とササでササ小屋を作り、移動しながら炭を焼いた。中学の時には父母は秋の早い時期に出稼ぎに出て、農作物の収穫や弟や妹の世話は鎌田さんが担った。
 「兄は中学出たら出稼ぎ行ってたから。学校は一週間に二日ぐらいは休んでいた。『あの開拓村』とばかにされたこともある」
 中学を出ると鎌田さんも出稼ぎに出た。秘境の地での難工事で多数の犠牲者を出し、「黒部の太陽」として映画化もされた黒部ダム(富山県、一九六三年完成)の工事ではボーリング作業に当たった。「見るもの触るものすごいものばかり。夜勤にされて一人だと不安なんだわ」
 福井の九頭竜ダム、東京の夢の島、大阪の伊丹空港…。鎌田さんがボーリング作業をした場所は、そのまま日本の高度経済成長の歩みとも重なる。
 ◇ご意見はfukushima10@tokyo-np.co.jpへ

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