「松子や今日も元気だったかね」 疎開先に届いた愛情あふれる家族の手紙 娘と孫が電子化し公開

2020年12月3日 17時00分
 戦時中、東京から新潟に疎開していた女性が母と兄から受け取った手紙を、娘と孫が電子化し冊子にまとめた。母と兄は疎開から7カ月ほど後の東京大空襲で犠牲に。「松子や」という呼び掛けで始まる手紙は体調を気遣ったり、片付けをするよう注意したりと愛情にあふれる。娘たちは「子どもを疎開に送り出した家族の切ない思いが感じられる。戦時中の庶民の記録を残したい」と話す。(畑間香織)

「母と兄に、自分はこんなに幸せに暮らしていると伝えたい」と話す山口松子さん=東京都北区で

◆新潟へひとり疎開、母と兄から届いた便り

 女性は東京都北区の山口松子さん(84)。1歳9カ月の時に父が亡くなり、母の蔵地でんさん、11歳年上の兄朝吉さんと深川区(現江東区)で暮らしていた。国民学校3年だった1944(昭和19)年8月、新潟県中条町(現胎内市)の寺へ集団疎開した。学校の体育館で母と兄に見送られたのが最後となった。
 「松子や今日も元気だったかね」
 44年9月25日付で朝吉さんから届いた手紙は、一筆箋4枚の裏表にびっしりと書かれていた。送った荷物について「きものも おどうぐも おうちにいたときのように ちらばらになってをってはいけませんよ」(兄の手紙原文では平仮名は片仮名で表記)との一節も。

疎開先へ届いた母と兄からの手紙やはがき

 日の丸の扇子を持ったタコや藤の花、飛行機雲などの絵が添えられていた。病弱だった朝吉さんは「元気にくらしなさいよ」「つよいりっぱな子になってください」と繰り返した。
 母でんさんは別の手紙で「おまいはぢぶんのかってなことばかりかいて」と小言をつづった。荷物が届いたか、返事がないと心配するとともに、寒さを我慢せず送った下着を身に着けるよう促した。

◆東京大空襲の後、途絶えた手紙 つらい時に読み返した

 東京大空襲・戦災資料センター(江東区)によると、45年3月10日の東京大空襲では、米軍が深川をはじめ下町一帯に焼夷弾を投下。推定約10万人が死亡、被災者は100万人を超えた。
 母と兄からの手紙は途絶えた。先生から学校が焼けたと聞いた。面会に来た叔父から2人は見つからなかったと言われ、「死んだんだ」と納得した。泣きわめくこともなく「みんな同じだから」と言い聞かせた。
 その年の秋、埼玉県蕨町(現蕨市)の叔父の元に引き取られた。つらいときに手紙を読み返し、「頂いた命をきちんと生きていかないと」と、自らを奮い立たせてきた。
 夜間高校に通いながら町役場で働き、21歳で結婚。4人の娘に恵まれた。同居する3女の友理子さん(57)は、小学3年生になった妹を母が「疎開させないで済んでうれしい」と抱き締めた姿を覚えている。松子さんは「自分の元で育てられる平和な時代になり、ありがたいと思った」と振り返る。

疎開先へ届いた母や兄からの手紙やはがきについて話した山口松子さん


◆「戦時中も、家族を思う気持ちは今と変わらない」

 手元に残っていた手紙13通を、自費出版経験がある孫の基予子さん(33)が冊子にまとめた。パソコンに取り込んで編集し、印刷会社に依頼して製本した。テントウムシ柄の便箋や色鮮やかな手紙を見て、幼い松子さんを喜ばせようと思いやる愛情を感じたという。「戦争の悲惨さが大きく扱われるが、戦時中でも普通の人の日常があった。家族を思う気持ちは、今と変わらないと思った」と話す。
冊子「“松子や”―疎開先への手紙」はPDF(電子ファイル)で読める。

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