はらだ有彩 東京23話 中野区 「中野長者伝説」

2020年12月9日 12時04分

古典の人情噺を現代版にリブートする話題作。イラストやテキスタイルデザインも手がける多彩な作家、はらだ有彩さんが、古典の人情噺を元に、現代版としてリブートする話題の新感覚ショートショート。 東京23区を舞台に繰り広げられる人情噺を、軽やかなタッチで描き下ろします。

もうそろそろ、いい加減に、世界は終わってくれただろうか。
頃合いを確かめるように衣九絵いくえは薄く目を開け、すぐに、どうやらまだらしいと気づいてほっと落胆する。健全な滅亡というものには案外長い時間がかかるようだ。ある日突然、隕石みたいな巨大な力が降ってきて、今から終わりますよと宣告してくれたらいいのに。
衣九絵がふらふらとビルから出た頃には太陽が傾き始めていた。現実の世界は平和そのもので、滅びも隕石もやってきそうにない。よろめくように仰け反り年季の入った商業施設を仰ぎ見ると、壁に掲げられた「BROADWAY」のロゴが躍動し、ハレーションを起こして疲れた目の奥を刺激した。
ずっしりと膨らんだトートバッグを抱え直し、自転車に鍵を差し込む。鍵には漫画のキャラクターを極端にデフォルメしたラバーストラップがついている。駐輪場の僅かな段差にさえ衣九絵は躓いた。足が上がらない。何しろこの一週間、ろくに眠っていないのだ。

早く帰って原稿を終わらせなければならない。
衣九絵はオタクである。厳密に言うと腐女子である。高校生の頃からかれこれ20数年間、主に男性と男性の恋愛とセックスを収めた同人誌を描いている。ペンネームは鈴木ナイン、鈴木は本名だ。かつてはもっと凝った名前をつけていたが、だんだん考えるのが面倒になってきた。
来週開催される二次創作同人誌即売会のため、衣九絵は修羅場の真っただ中にいた。この週末に入稿しなければ印刷所の締め切りに間に合わない。それなのに目を背けて逃避行に出かけ、予定よりも長居しすぎてしまった。
自転車のかごでトートバッグがだらりとめくれ、衣九絵の好きなイラストレーターの絵が裏返って中身が見えている。少女漫画が4冊、少年漫画が3冊。個人が作った小冊子、いわゆるZINEが4冊、同人誌が10冊。同人誌の内訳は、4冊が男性向け、6冊が女性向け。女性向けのうち2冊は随分前に衣九絵が作ったものだ。転売禁止と注意書きをつけたつもりだったが、自分だってこうして中古の同人誌を購入しているので責め難い。売られているのを見かけるたびに自分で買って回収している。
少女漫画、ZINE、同人誌、ZINE、少年漫画の順番で衣九絵は本をバッグに入れた。中野がオタクとサブカルチャーの聖地だなんて、誰が言い出したのだろう。オタクとサブカルの違いって何だ。それから、ZINEと同人誌だなんて、誰が呼び始めたのだろう。ZINEと同人誌の違いって何だ。ついでに男性向けと女性向けの違いって何なんだ。
寝不足で搾り滓のようになった頭で、考える意味のないことを考える。衣九絵にとってさほど重要な主題ではなかったが、考える意味のないことを考えることでしか埋められない空腹というものがあるのだ。そして現実の空腹についても考える。自宅までは自転車で10分ちょっと。きっともう外に出る余裕はないだろうから、帰りにスーパーへ寄って食料を確保しておこう。
神田川のそばの四階建てのマンションに、衣九絵は住んでいる。築年数が異様に嵩んでいるが、改装済みだし、中野新橋駅徒歩3分、オートロックあり、スーパーも近い。何より収納が多いところが気に入っている。同人誌とは基本的に増え続けるものだ。
通学のために借りた部屋に、大学を卒業したあともずっと住み続けているせいか、衣九絵は今でもどこか学生気分で暮らしていた。生活のために目にする風景と、趣味のために目にする風景が変わらない。全ての日々が積み重なり、地層になって盛り上がる。時折母校の前で後輩らしき大学生たちを見かけると、赤ちゃんみたいだなと感じる自分にはっとしたが、驚きは自虐になるほど新鮮さを長く保たない。衣九絵が長年の生業としている映像編集の仕事はいつも人手が足りず、新宿近辺でいくらでも見つかった。激務と並行してオタク活動をこなすのは大変だが、忙しすぎて私生活を披露する機会がないのはかえって好都合だった。たぶん、声を大にして同人誌を描いていますと言えば職場の人にはそれなりに敬遠されたりするのだろうが、そんな暇はない。
昼も夜もなく働き、多少の転職と昇給を繰り返し、わずかな隙間で絵と漫画を描き、倒れるように眠っていると、何日、何年が経ったのか分からなくなる。まったく楽しいのだ。
前かごの重さにぐらつきながら神田川にかけられた小さな橋を自転車で走り抜ける。ここを通るたび、どうしても川の名前を冠した有名すぎるフォークソングが頭の中で勝手に再生される。その歌い出しの問いかけを思い浮かべ、衣九絵は喉で返事をする。
—―忘れるわけないだろ~~~~~。
薄く水が流れる神田川に、夕日の最後の光が散り散りに反射する。世界がほとんど終わったあとも、世界がなかなか終わらないせいで、衣九絵は途方に暮れている。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

眠気覚ましにぬるいシャワーを浴びながら、浴室リモコンに表示された水温が年齢、時刻が誕生日とぴったり一致していることに気づく。ちょっと照れて、スクリーンショットを撮ろうとしてから、現実世界にはそんな機能はないことに面食らう。紙に絵を描いていても手癖でショートカットキーを探してしまう。ジョークらしい寒気を味わっているうちに時計は進み、数字はすぐに意味を失った。
今夜は最上のり子と電話する予定だったことを思い出し、慌てて身体を拭く。濡れた髪のままスウェットに着替えたところで着信音が鳴った。
最上のり子との付き合いは、衣九絵のオタク歴と一致している。なんと彼女は高校生の頃からずっと同じジャンルで活動し続けている。『龍春春遊伝』という中国を模した架空の世界を描いたゆるいファンタジーで、衣九絵ものり子もこの作品に傾倒してオタクになった。セイロン文庫という中高生向けの叢書で展開された原作は15年以上前に完結しているが、テレビアニメ、ゲーム(ワンダースワンだった)、ドラマCDと広く展開され、今でも15分ほどのウェブアニメが配信され続けている。
原稿に追われる者同士、喋りながら一緒に作業をしようというのが電話の目的なので、返事が適当でも気にしない。「まじで眠い」とか「もう徹夜していい年じゃない」という最上の聞きなれた泣き言を笑って受け流し、口に出す意味のない会話の合間に手を動かす。
「お絵描きソフトとか、昔はなかったような便利なものに囲まれてんのに、なんで毎回ぎりぎりになるんだろう」
「お絵描きソフトがなかった頃には背負わなくてよかった重圧があるからでしょ、仕事とか」
最上はいいやつだ。この頃、彼女とは思い出ばかりを話している。しかし今日は新しいニュースがあった。
『龍春春遊伝』の完全版ブルーレイボックスが発売されるのだ。ウェブアニメのオリジナルストーリーも一挙に収録される。
しかし何よりも嬉しいはずの報せを前に衣九絵は口籠った。
「予約しないかもしれない、私」
電話の向こうで最上が微かに身構えたのが分かる。二人とも、同じ人物のことを思い出して押し黙っていた。
「衣九絵さあ、もう、忘れた方がいいよ」
だけど彼女はいいやつだから、怒らずに窘めてくれる。衣九絵は甘えて、今日二度目の台詞をたっぷりと溜めて唸った。
「忘れるわけないだろ~~~~~」
大学2年生の頃、『龍春春遊伝』の最終巻が刊行された。衣九絵と最上はインターネットで出会ったオタク仲間と毎日嘆き悲しみ、その友人の輪の中に小笹弓月はいた。原作の動きが減速すると一人、二人と他の作品へ活動範囲を変えていくのは世の常である。衣九絵も新天地へ移った。連載が盛り上がってきたばかりの流行りのジャンルで、衣九絵のサークルはちょっとばかり有名になった。衣九絵の同人誌を買い求める人が増え、新刊も印刷部数もどんどん増えて、イベントでも人を捌きやすい壁側の場所を割り当てられるようになった。
そのうち、インターネットで衣九絵を悪し様に書く者が現れた。
金のために同人活動をしているとか、脱税しているとか、他の同人作家に金を握らせてジャンルから追い出しているとか、衣九絵に売り上げ金額をマウンティングされて嫌な気分になった人がいるとか、儲かりそうな人気のジャンルを渡り歩いて荒らしていくとか、衣九絵が活動したジャンルは衰退するとか、とにかく金の話題ばかりだった。イベント会場に搬入した段ボール箱から印刷所をチェックされ、ページ数から印刷料金を逆算され、差額を割り出されることもあった。
書き込んでいたのが、小笹だったのだ。
詰問された小笹はSNSに意味深なコメントを残してアカウントの更新を絶った。『龍春春遊伝』が好きで、本当に好きで、衣九絵に離れてほしくない一心での行動だったと書かれていたが、もう誰も、小笹の名前にさえ触れられなかった。衣九絵もアカウントを消し、名前も変えて、交友関係を全て清算した。
かくして世界は滅亡した、ように思われた。
「あんな目に遭ったのに、なんで私まだオタクやってるんだろう」
「『やる』とか『やらない』とかじゃないからでしょ、『生きる』とかそういうのじゃん」
「利益出さないように気を付けるの面倒になってきた、もう無料配布だけにしたい」
「それはそれで面倒がられんだよ」
本当に世界が滅びるシーンを衣九絵は想像する。誰もいない世界にはしがらみもないが、原作が供給されないのは困る。ついでに昔イベントで会った人たちの顔を想像する。皆どうしているだろう。今もオタクしてんのかな。高校生のときに遊んでくれたお姉さん、もう40代後半くらいだな。オタクは若いものだと思っていた。
「私ら、何のために睡眠時間削ってオタクやってんのかね」
「衣九絵、それやばい思考だよ、寝た方がいいんじゃない、オタクに『何のため』とかないから、趣味のためだから」
「そうなんだけどさあ」
「他に何のためがあんだよ」
「性欲とか」
「性欲だけ取り出すの、なんか、やめて」最上が爆笑して、緊張がふと解ける。だから衣九絵は、本当に気がかりなことを口に出してしまった。
「最近」
最近、前よりも気持ちの起伏がなだらかになっている気がする。萌えるという感情が沸き起こってから、収まるまでの時間が縮まっている。高く燃え上がる炎の、丈はそのままに密度が下がっている。
「こんなので本だけ出し続けて、意味あるのかなあ」
描くペースを落とすと自分の変化を認めたみたいで、毎年の予定だけは死守している。何も変わらないように見えるのに、ゆるやかに終わろうとしているのが分かる。
きっと世界の終わりというのは、こんな風に緩慢なものなのだろう。少しずつ熱が目減りしていって、紅茶が冷めるように失われていく。こんなにゆっくり終末に向かっていたら、どこからが最後通告なのか分からない。
これが枯れるってこと?と茶化したが、最上は笑わなかった。
「ねえ、だけど意味なくったって、」
やめるのは寂しいじゃない。ねえ。だってずっとオタクだったんだから、人生と一緒になっちゃってるじゃん。本当に好きで描いたものじゃなければすぐに分かる、なんて、誰が言ったんだろうね、たぶん、日々に染みるような何かを好きになったことがない人間だって思っちゃう。だっていくら惰性があったって、ほんとに好きでもあるんだから、それに生活が勝っちゃうのだって、別に、矛盾とかじゃないじゃない、ねえ。
衣九絵と最上のどちらの口から出たのかわからない独り言たちがさざめく。衣九絵はタブレットにペン先を擦りつけ、完成したばかりのページを保存した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

慌ただしく働いているうちに、ブルーレイボックスの発売日はすぐに来た。滅亡も躍動もしない世界では毎日はとにかく早く過ぎる。何度げんなりしても日常の中でメーターの目盛りがゼロに戻る。それが安楽でもあり、同時に少し寄る辺ない。衣九絵はブルーレイボックスを買っていなかった。もしも部屋に置いたまま、全然箱を開ける気にならなかったら、それが終わりのモニュメントになってしまう。
近隣に遮るもののないベランダから昼の光が厚く差し込む。原稿のことを考えない日曜日は久しぶりだった。ベッドに横たわると、12畳ほどのこの空間で何もかもが完結したように明るくて心地良い。印刷された同人誌はちゃんとイベント会場に届いていた。最上も何とか間に合ったらしい。
最上は最近、SNSでずっとブルーレイの感想を呟いている。彼女の投稿についていた「#龍春春遊伝」の文字をタップする。出来がいいらしくハッシュタグは盛り上がっていた。感想やファンアートがするすると流れていく。
ふと、画面をスクロールする手が止まった。
「久しぶりに描きました」というコメントの添えられた絵に見覚えがあった。
小笹だ。
ユーザーネームが変わっていたけど、間違えようがない。忘れようがない。さっと腹の中が重くなる。
青ざめ浮き足立ちながら、プロフィールを表示する。タイムラインには小笹の私生活が赤裸々に綴られていた。結婚して、子どもがいるようだった。子どもの小学校でのできごとに、今はまっている海外ドラマシリーズの話題が入り混じる。その間に、『龍春春遊伝』のブルーレイボックスが届いた日の写真があった。
初回特典のステッカーの後ろに、小笹の子どものものらしい、見慣れないキャラクターTシャツが写り込んでいる。
小笹が心から疎ましい。二度と会いたくないし、名前を思い浮かべるだけで、知らないところで何かひどい目に遭えばいいと思うこともできないほど息が詰まる。顔を思い出すだけで、後頭部から両目の外側を通って、重い幕で閉ざされたように視界が昏くなる。
だけどスタンプで隠された部屋の写真の中、やけにくっきりと光るパステルカラーの小さなTシャツを見たとたん、その重い幕がひときわ強く引かれ、あまりに引っ張られすぎて、リールの留め具が外れたカーテンのように後ろから勢いよく開いた。隙間から、大人になったことだしお互いに忘れよう、という安寧で煩わしい時効とは全く異なる閃光が差し込み、衣九絵の部屋に差す陽光と溶け合う。これから収縮して閉じられていくばかりだと思っていた世界が、衣九絵と全く関係のない場所で、衣九絵のことなどお構いなしに、生活に混ざって存在し続けていた。
小笹のプロフィール画面を操作し、「このユーザーを表示しない」というボタンを手早く選ぶ。手に持ったままのスマートフォンで最上に電話をかける。彼女も同じようにベッドでのびていたらしく、すぐに応答があった。
「最上、次のイベントで、『龍春』のレポ本出そう、コピーで」
「何、いきなり、やっぱ良かったんじゃん」
「まだ観てないんだけどね」
「観てないのかよ」
「うん、だから今から買ってくる」
買ったらすぐ連絡するから、と言って一方的にかけた電話を一方的に切る。今かよ、と転げ回って笑い出した気のいい友人の声が遮断される。構うことのない服に着替えて、構うことのない化粧を施し、玄関で構うことのない靴をつっかけようとしたところでメッセージが届いた。
「で、何部刷るの」左手でスリッポンを引っ張りながら右手で急いで返信する。
「二部」
「すくなっ」
「私とあんたの分」
「キンコーズのコピー機で?」
「キンコーズのコピー機で」
「わざわざ割付して?」
「わざわざ割付して」画面をスリープにしたスマートフォンをトートバッグに投げ入れる。
溌溂と楽しかった頃に戻れなくても、喜びや後悔がなだらかになる一方でも、修羅場でも、入稿直後でも、現実の世界は平和そのもので、滅びも隕石もやってきそうにない。
衣九絵の自転車が緩慢に滑り出す。川を渡っても、いつもの歌は聞こえてこなかった。 

覚え書き・≪中野長者伝説≫
「中野長者伝説」は、中野に実在したとされる鈴木九郎という人物をもとにしたお話です。
応永の時代に紀伊国から中野へ移ってきた九郎は、あるときその信心深さから観音様の加護を受け、中野長者と呼ばれるほどのお金持ちになります。
金が溢れすぎてとうとう屋敷に収まりきらなくなった頃、九郎はふと「財産を隠してしまおう」と思いつきます。そして隠れ家へ金を運ばせ、帰り道に場所を知っている人間を殺してしまうのです。行きは二人で神田川にかかる淀橋を渡っていくけれど、帰りはいつも長者一人…。そんな噂が駆け巡りました。
そんな九郎の一人娘の結婚式を控えたある夜、暴風雨が起こります。娘は突然蛇へと姿を変え、新宿・熊野神社の池に飛び込んでしまいます。九郎が神奈川の最乗寺の僧を呼んで祈りを捧げると、雨はやみ、娘は人間の姿に戻りました。しかし彼女はそのまま天へ浮かび上がり、二度と帰ってきませんでした。嘆き悲しんだ九郎は寺と塔を立て、信心深い生活へ戻ったということです。
この娘は実際には小笹という名で、蛇になって消えたわけではなく、十八で亡くなったといわれています。現実と架空の入り混じった伝説は不思議です。

はらだ有彩

関西出身。テキスト、テキスタイル、イラストレーションを作るテキストレーター。2014年から、テキストとイラストレーションをテキスタイルにして身につけるブランド《mon.you.moyo》を開始。2018年5月、日本の民話に登場する女の子の心情に寄り添う本『日本のヤバい女の子』(柏書房)刊行。「wezzy」「リノスタ」などウェブメディア、『文藝』『東京人』『装苑』など雑誌への寄稿。
◆はらだ有彩公式サイト:https://arisaharada.com/
◆Twitter :@hurry1116
◆Instagram :@arisa_harada

書籍化された これまでの「東京23話」


加藤千恵の東京23話
幻冬舎文庫「この街でわたしたちは」



松田青子の東京23話
河出書房新社「東京 しるしのある風景」



山内マリコの東京23話
ポプラ社「東京23話」

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