<戦火の記憶 戦後75年 1945→2020>運命の電報 ニイタカヤマノボレ 一二〇八 開戦告げた無線塔

2020年12月8日 06時27分

米軍管理下にあった1955年ごろ撮影の船橋送信所(船橋市視聴覚センター提供)

 一九四一(昭和十六)年十二月八日(日本時間)、旧日本海軍の機動部隊はハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争の戦端を開いた。開戦を指示した歴史的な暗号電報が「新高山登(ニイタカヤマノボ)レ 一二〇八(ヒトフタマルハチ)」。千葉県船橋市の海軍無線電信所船橋送信所から発信された。
 この電文は、山口・岩国沖に停泊中の連合艦隊旗艦、戦艦「長門」から、四一年十二月二日午後五時半、連合艦隊の全部隊に発信された。
 陸地と結んだケーブルを通じて艦船向けには船橋送信所経由(短波)で、潜水艦には愛知県刈谷市の依佐美(よさみ)送信所(超長波)から発信。十一月二十六日、千島列島択捉(えとろふ)島の単冠(ひとかっぷ)湾を抜錨(ばつびょう)、太平洋の北方航路をひそかにハワイに近づいていた機動部隊も受信した。

船橋送信所のあった行田団地付近。左はJR武蔵野線=千葉県船橋市で、本社ヘリ「おおづる」から

 新高山は当時、日本の統治下にあった台湾の玉山(標高三、九五二メートル)の旧称。富士山をしのぎ当時は日本最高峰だった山が武力発動の隠語になった。
 船橋送信所は一五(大正四)年に運用を開始。一六年には大正天皇と米国ウィルソン大統領が交信、二三年の関東大震災では救援電波を発信した。
 敗戦後、米軍が接収。六六年に返還、七一〜七二年に解体・撤去された。跡地には千葉県立行田公園や小中学校、団地などを建設。公園内には無線塔の記念碑が立つが、塔をしのばせる物は残っていない。二〇〇八年、産業近代化の過程を物語る経済産業省の近代化産業遺産群に選ばれた。
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 「子供のころ、潮干狩りをしていて、ふと振り返ると森の向こうにこの塔が見えました」。郷土史家の滝口昭二さん(83)は振り返る。船橋市出身で地元の小中学校教諭を務め、昨年、「行田無線史 総集編」を出版した。
 この送信所には暗い歴史の一面もある。滝口さんは「関東大震災の直後、当時の所長が『朝鮮人が暴れている』とデマ情報を流し、地元の人に警備を要請。これがきっかけで虐殺事件が起きた」と負の歴史を指摘する。
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 山本五十六(いそろく)連合艦隊司令長官は出撃前、可能性は極めて低かったが、継続中の日米交渉が成立した場合には機動部隊に引き返すことを命じていた。しかし送信所からは「交渉成立 引き返せ」の電報は送信されることはなく、日本は亡国の戦いに突入した。

行田公園内にある船橋送信所の無線塔の記念碑

◆「リメンバー・パールハーバー」米の反日機運高まる

 日独伊三国同盟締結(1940年9月)、日本軍の南部仏印進駐(41年7月)に対し、米国は対日石油輸出を禁止するなど、両国間の緊張が高まり、開戦は不可避の状況になった。山本長官は開戦冒頭、主要空母6隻すべてを投入。米海軍太平洋艦隊の根拠地、ハワイ真珠湾を艦載機で攻撃し、日米の兵力バランスを崩す画期的な作戦を計画した。海軍内には投機的作戦として強い反対があったが、山本長官は押し切った。
 南雲忠一中将率いる機動部隊は、現地が日曜日の41年12月7日(日本時間8日)早朝、真珠湾を奇襲し、在泊中の戦艦すべてを撃沈破した。
 しかし日本大使館による米国当局への最後通告前に攻撃が行われたため、ルーズベルト大統領は「だまし討ち」と反発。国民は「リメンバー・パールハーバー」と反日機運を高めた。
 文・加藤行平/写真・戸田泰雅、加藤行平
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