湖の女たち 吉田修一著

2020年12月13日 07時00分

◆湖で交差する人と歴史
[評]郷原宏(文芸評論家)

 この小説を読んで、私はすぐに歌人河野裕子の絶唱「たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏(くら)き器を近江と言へり」を思い出した。「昏き器」とは琵琶湖のことだが、それと同時に、あるいはそれ以上に、官能的な女性の体をイメージさせる。つまり、ここで湖と女は一体のものとしてうたわれている。
 本書は、一言でいえば、この「昏き器」の物語である。琵琶湖に近い介護療養施設で百歳の老人が死んだ。直接の死因は呼吸器の停止によるものだが、製造企業は機械の故障を認めようとせず、他殺の疑いが強まっていく。
 この事件を捜査する地元署の若手刑事と、施設に勤める女性介護士は、やがて異常な性愛で結ばれる。それはまさしく二つの「昏き器」がぶつかって音を立てるような危険な関係である。
 一方、別の取材で近江を訪れた週刊誌記者は、死んだ老人の経歴に興味を抱き、陸軍七三一部隊による生体実験の痕跡を求めて旧満州(中国東北部)に飛ぶ。ここでもまた暗い歴史を秘めた小さな湖が登場する。
 この二つの湖にまつわる物語が一点で交差したとき、事件の意外な真相が明らかになるのだが、それはもはやキャラメルのおまけのようなものにすぎない。読者にとって何よりもうれしい贈り物は、物語の随所に点綴(てんてい)される湖の美しさである。たとえば結末近く、週刊誌記者の池田が湖畔で夜明けを迎える場面。
 「ここにはまだ、自然界の音しかない。/そして彼ら(野鳥たち)はきっと知っている。この世界がどれほど美しいのかを。/だからこそ、この美しさをわたしやあなたに伝えたいと思っている。/言葉はいらない。わたしやあなたはただ、岸辺にしゃがみ、寄せる波に触れてみればいい。ひんやりとした湖水が、きっとそのすべてを教えてくれる」
 この作品の美しさを評するのに、言葉はいらない。あなたはただ本を手にとって、言葉たちのさえずりに耳を澄ますだけでいい。すると、あなたの内部で「昏い器」が鳴りだすだろう。
(新潮社・1760円)
1968年生まれ。作家。「パーク・ライフ」で芥川賞。著書『悪人』『国宝』など。

◆もう1冊

吉田修一著『怒り』(上)(下)(中公文庫)

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