独創の目で絵を評価 若冲ら紹介『奇想の系譜』出版50年 辻惟雄(つじ・のぶお)さん(美術史家)

2020年12月12日 13時10分
 近年、ブームが続く江戸絵画。人気絵師で真っ先に名前が挙がるのが、伊藤若冲(じゃくちゅう)だろう。だが、東京大名誉教授で美術史家の辻惟雄(のぶお)さん(88)=名古屋市出身=が書いた一冊の本がなかったら、状況は全く違っていたかもしれない。『奇想の系譜』(ちくま学芸文庫など)。無名だった若冲らを「発掘」し、美術の評価軸を変えたとされる名著だ。今年で初版の刊行から五十年。辻さんに、今の思いを聞いた。
 「日本美術に対する世の中の関心も、ずっと低かったですから。これほど長く話題になるとは、夢にも思わなかった。光栄でもあり、意外でもある」。神奈川・JR北鎌倉駅近くの喫茶店。テラス席に座った辻さんは、両手で頬づえをつき、時々首をかしげながら、半世紀を振り返った。
 『奇想の系譜』のもとになる連載を雑誌「美術手帖」で発表したのは六八年。東京大大学院をへて、東京国立文化財研究所に勤めていたころだ。当時、日本画研究といえば、狩野派、土佐派など、流派に焦点をあてた考察がほとんどだった。辻さんも、狩野派の礎を築いた絵師・狩野元信を専門に調べていた。「そういう基準の型となる研究も、大事です。それを頭に置きながらも、私にはどこか、アンチの気持ちがある」
 連載では、流派とは関係なく、人の好奇心に訴えかける奇想天外さを絵の評価軸に据えた。取りあげたのは若冲を含め、曽我蕭白(しょうはく)、歌川国芳ら六人。江戸絵画史で、異端とされていた絵師たちだ。「私は学生時代、絵描き志望で、たくさん画集などを見ていました。特にシュールレアリスムの無意識の世界に引かれてね。日本美術の専門家の卵としては、珍しい目があったのかもしれない」。いったん奇想に着眼してみると、ほぼ手付かずの面白い絵がたくさんあった。「向こうからこちらに来てくれる感じで」研究も進んだ。
 時をへて二〇〇〇年。京都国立博物館で開かれた若冲の没後二百年展から、爆発的なブームが始まった。「インターネットの普及と関係があるという分析もありますね。でもいったいどうして、ここまでの人気を呼んだのかは、私にも分からない」
 既成の価値観にとらわれずに絵を見る−。簡単なようで、学術の世界にいる人ほど難しい。東京大教授に国際日本文化研究センター教授、多摩美術大学長など、学者として着実に地歩を固めながら、それをやってのけたのが、辻さんだ。
 後輩研究者らは、敬愛を込めて「自由人」と評す。たとえば千葉市美術館の館長時代、学芸課で辻さんの秘書的な仕事をした浅野秀剛(しゅうごう)さん(現在は奈良市の大和文華館館長)は、おかしそうに、当時のやりとりを明かす。「先生は、面白い予定を何よりも優先するんです」
 ある時、楽しそうな仕事の依頼が入った。だが手帳を見ると、先約がある。それに気付いた辻さんは、消しゴムで先の書き込みを消し「よし、これでなくなった」とつぶやいた。「『先生、それだけじゃ予定はなくなりませんよ』と忠告したら『君も意外と俗人だねえ』って残念そうにしていて…。度肝を抜かれました」。浅野さんが今、研究生活を送る上でも「先生の影響は大きい」という。「研究は、自由な発想でやっていいんだって思いますね」
 自由人という言葉について、辻さんは「自分は、気付いたら時々、変なことをしているだけ」と、ひょうひょうと語る。今年は、日本文化のすぐれた研究者に贈られる日本学賞に選ばれた。奇想に続き「あそび」「かざり」「アニミズム」という三つのキーワードから、日本美術の特質を読み解く取り組みも、独創性の高さで注目されている。
 一貫しているのは「アカデミックであろうとなかろうと、いいものはいい」という思いだ。「学者は客観的な事柄が大切で感想は述べるな、という人もいる。でもこの絵が素晴らしいから推すんだ、というのがないとね」。来し方を振り返る言葉が、これから活躍する美術研究者らへのエールにも聞こえた。 (中村陽子)

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