<よみがえる明治のドレス・3>「和魂洋才」大礼服も憲法も 西洋文明の日本化 国家の威信示す

2020年12月15日 07時06分

憲法発布式、和田英作画(聖徳記念絵画館所蔵)。左のバラ色のドレスが昭憲皇太后

 尼門跡寺院の大聖寺(京都市)が所蔵していた明治天皇のお后(きさき)、昭憲皇太后の大礼服は、一八八八(明治二十一)年から九〇年につくられたとみられている。女子の大礼服の制作が始まった百三十年前とは、どのような時代だったのか。時代背景を探っていくと、一見、接点があまりないように思える大日本帝国憲法(明治憲法)と大礼服が、実は密接な関係にあることが浮かんできた。
 「明治憲法の発布の年あたりに、西洋のドレスである大礼服が、日本の技術を結集してつくられた。大礼服も明治憲法も、そのつくられ方は同じではないか」

国際日本文化研究センターの瀧井一博さん

 十月下旬、渋谷区の明治神宮で開かれたシンポジウム「美の継承」で、登壇した国際日本文化研究センター教授の瀧井一博さんは、こう切り出した。
 明治憲法が発布されたのは一八八九(明治二十二)年二月十一日で、その翌年十一月には第一回帝国議会が開かれ、日本に立憲主義と議会制度が導入された。

昭憲皇太后の中礼服(文化学園服飾博物館所蔵)。明治憲法の発布式に着用した可能性も指摘されている

 憲法発布式に昭憲皇太后が着用したのは、宮中の晩さん会や夜会の際の宮廷服と定められた中礼服(ローブデコルテ)だったが、宮廷服の中で最も格式の高い大礼服も、明治憲法発布前後につくられた。
 最初の大礼服は八六年、宮内大臣兼務の初代総理の伊藤博文が青木周蔵・前ドイツ公使らを通じて注文し、ベルリンの裁縫師が仕立てたが、この大礼服は現存が確認されていない。大聖寺所蔵の大礼服も当初、ドイツ製とみられていたが、大礼服の修復過程の研究から、日本の技術を活用してつくられていたことが明らかになってきた。
 「洋服という言葉が使われるようになったのもこの頃で、皇后の洋装化は、最も象徴的な日本近代化のしるしだった」。京都服飾文化研究財団理事の深井晃子さんは、皇太后が洋装と国産服地の使用を奨励する「思召書」を発した八七年が洋装化への大きな転換期だったと指摘する。
 八七年一月一日の新年拝賀。例年と違うのは、大礼服姿の皇太后が明治天皇と並んで、勅任官以上の政府高官に続き、外国公使夫妻らの拝謁を受けたことだ。大阪市立大都市文化研究センター研究員の柗居(まつい)宏枝さんは「伊藤博文は、外国公使ら多くの人に、洋装した皇后の姿を見せることによって、近代化の進展を示そうとしたのではないか」と分析する。
 一方、憲法の制定過程と大礼服の関係はどうか。
 明治憲法はプロシア(ドイツ)の憲法を参考にしたとされる。だが、瀧井さんは、伊藤博文が明治憲法の起草にあたって、師事したドイツの法学者ローレンツ・フォン・シュタイン宛ての書簡(八九年三月一日付)の中で「いかなる点においても、模倣ではなくて、徹頭徹尾日本的」と明治憲法を評していることに注目する。「憲法それ自体は西洋のものではあるが、その猿まねであってはならない、と伊藤は考えていた。新しい西洋文明を受け入れる中で、西洋の立憲主義を日本化するのが課題で、そこに明治日本のミッションを見ていた」と、大礼服との共通性を指摘する。

帝国議会開院式臨御、小林未醒画(同絵画館所蔵)

 今年は国会が開設されてから百三十年。九〇年十一月に開かれた帝国議会開院式では、陸軍大将の正装を着用した明治天皇をはじめ、皇族は皇族大礼服や陸海軍の正装、大臣たちは文官大礼服、貴族院議員を務める華族は有爵者大礼服、衆議院議員は非役有位大礼服かえんび服を着用して参列した。
 『帝国日本の大礼服』(法政大学出版局)の著書がある日大准教授で日本近代史が専門の刑部(おさかべ)芳則さんは「儀式を彩る豪華絢爛(けんらん)たる大礼服は二十余年をかけて実現させた近代的な法典整備の一環であり、西洋の王室に見劣りしない国家の威信を示した」と評価する。
 文・吉原康和
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