コロナ禍で全米図書賞受賞作に共感「絶望のレンズで東京五輪を見る人が増えたのでは」柳美里さんが語る福島

2020年12月26日 06時00分

日本記者クラブで会見する柳美里さん=東京都内で(北爪三記撮影)

 米国で最も権威がある文学賞のひとつ、全米図書賞の翻訳文学部門に、作家柳美里さんの小説『JR上野駅公園口』が選ばれた。高度成長期に福島から東京に出稼ぎし、家族を失ってホームレスになった男性の、受難の人生を描いた。貧困がさらなる貧困を呼び、這い上がる困難さを描いた絶望の物語は、コロナ禍に苦しむ読者の共感を呼んでいる。受賞後に日本記者クラブで開かれた記者会見で柳さんは、小説の内容とも重なるような、衝撃的な福島の現状を語った。(出田阿生)

◆各地の労働者が福島へ、ホームレスに

 東日本大震災がきっかけで、2015年に被災地の福島県南相馬市へ移住した柳さん。東京電力福島第1原子力発電所から16キロの、同市小高区で暮らしている。会見でマイクを握った柳さんは地元の現状について、「南相馬市でホームレスが増えている。昨年、社会福祉協議会の友人から聞いた話です」と始めた。
 路上生活者は地元の人々ではない。多くは大阪や沖縄の男性たちだという。なぜそんな遠くから―。その大きな理由が東京五輪の開催決定だった。競技場建設などの現場は賃金が高く、東北や関東の労働者はそちらへ流れた。そのため被災地で必要な復旧・復興作業、原発事故の収束・除染作業の人手が不足した。
 「最低賃金が安い大阪の西成区や沖縄から、ホームレス同然の人をスカウトしてくる、と地元で建設会社を営む友人に聞いた」
 「住まいと食事付き」の条件で福島に働きに来た人々が、持病があるなどで雇い止めされ、そのまま野宿者になる。収容施設もなく、有志が炊き出しをしている。健康保険証がない人も多いため、病院では医療費の会計をする段階で消えてしまう。地元の寺の棚には、無縁仏となった遺骨が並んでいる―。

◆受賞作の反響

 柳さんはこれまで、芥川賞となった『家族シネマ』やベストセラーの『命』など自伝的な小説を数多く手掛けてきた。だが、受賞作の主人公は、天皇と同じ日に南相馬市に生まれた男性にした。その人生の軌跡を「私小説のように書くことができた」のは「地元で600人の声を聞き続けたから」。震災後の2012年3月から、臨時災害放送局のラジオ番組「柳美里のふたりとひとり」を担当。6年間にわたり住民の話を毎週聞いた。「一定以上の年齢の人からは必ず出稼ぎの話が出た」という。原発の誘致前は貧しさゆえ、故郷で生計を立てられなかったからだ。
 ラジオに出演したある男性は、自宅跡地に柳さんを案内した。「出稼ぎでほとんど家族と同居できず、ようやく故郷で暮らせると思ったら、津波で何もかも失った」と語った。「運がなかった、とその人はおっしゃった。その言葉が私の心にとげのように深く食い込んだ」
 小説の主人公も1964年東京五輪の前年、家族を養うために東京へ出稼ぎに行ったという設定だ。体育施設を建設する土木工事に汗水を流し、その後も50年近く出稼ぎで苦労する。だが、待っていたのは一人息子と妻の死だった。再び東京に戻った男性は、上野公園で野宿するようになる。皇族が公園を訪れるたび、通称「山狩り」によってホームレスの人々は小屋を撤去させられ、公園の外へ追い出される。過酷な労働で日本の高度経済成長を支えた男性は、「見えない存在」にされた。古道具が使い捨てられるように。そこへ、故郷が津波にのまれたニュースが入る。男性は駅に向かい、ホームの端に立った―。
 「希望ではなく、絶望のレンズで東京五輪を見る人が増えたのではないか」と柳さんは言う。発行部数が30万部となった受賞作への反響は、「まっすぐなメッセージが多い」と感じている。祖父母の人生に重ねて涙が出たという人、飲食店バイトで生活費を稼いでいたが生活苦に陥った地方出身の学生、五輪景気を期待して上京したが、地元に帰ろうか迷っているタクシー運転手…。読者がコロナ禍の苦しい現状を重ねて共感してくれているという。
 今も、困窮する人々をよそに日本政府などは来年の五輪延期開催を決め、多額の税金投入が決まった。柳さんは「復興五輪と名付けられたが、コロナ以前にそもそもこの時期にやる話だったのか、被災地の現状を見て決めてほしかった。資材や労賃が高騰し、被災地の復興を遅らせる原因のひとつになった」
 実は、受賞作は「山手線シリーズ」として発表した5作のうちの一つ。柳さんが次に取り掛かろうと思っているのは、山手線シリーズの「番外編」で『JR夜ノ森駅』。原発事故の影響で一時は営業休止になっていた福島県富岡町の常磐線の駅を舞台に、ホームレスになった除染作業員を描こうと構想している。

◆「孤独死や自死が増える中、求められているのは親密さ」

 いま柳さんは、南相馬市で営む本屋に併設する形で、新たにカフェを始めた。若い世代が転居し、独居のお年寄りがコンビニ食に頼る様子を目の当たりにしたためだ。避難指示解除で帰還した住民は事故前の3分の1ほど。65歳以上の高齢者が約半数を占める。
 柳さんは「家屋解体後の空き地や、廃屋が連なる中、ぽつんぽつんと帰還した方がいて孤絶している。日課の散歩では、1時間歩いても誰とも出会わない」と話す。そこにコロナで緊急事態宣言が出された。ソーシャルワーカーも高齢者を訪問できない。災害公営住宅では茶話会などが中止され、孤独死の報告が増えた。隣の浪江町では、50代と80代の母娘の心中とみられる事件が起きた。「命を守る行動を取りましょう、人との距離を取りましょう、と地元でもアナウンスされたが、どこに3密があるのか。孤独死や自死が増える中、求められているのは親密さなのに」
 2020年4月のオープン直後、緊急事態宣言で休止したカフェの営業を、12月2日に再開した。地元産の米や魚介、牛乳を使ったリゾット、在日韓国人として幼少から親しむ牛骨のスープ「ソルロンタン」など、あたたかいメニューをそろえた。
 2021年は震災10年を迎える。柳さんは言う。「大きな節目だが、2011年3月11日というのは時間の枠組みが崩れたときだったと思う。ある人にとっては、大きな喪失によって時計が壊れたまま。行方不明の家族を今も探し続けている方もいる。時が止まったままで痛みの中に立ち尽くしている人がいることも気に留めてほしい」

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