<スポーツ探偵>箱根駅伝、ルーツはアメリカ横断駅伝の予選会 「天下の剣」をロッキー山脈に見立て

2020年12月31日 11時40分

1920年、第1回箱根駅伝で優勝した東京高等師範学校。前列左から2人目の学生服姿が金栗四三氏(一般社団法人・茗渓会提供)

 今年もあと4日で新年を迎える。正月の風物詩といえば、箱根駅伝を思い浮かべる人が多いだろうが、100年前の第1回は「アメリカ大陸横断駅伝」の予選会だったことをご存じだろうか。生みの親の金栗四三(かなくりしそう)氏が描いた壮大な夢を取材した。

◆仮想ロッキー山脈

 一九一九(大正八)年十月のことだった。「日本マラソンの父」と呼ばれる金栗四三氏が汽車の中で友人たちと雑談していた。「何かスケールの大きなことができないかな」「それなら、アメリカ大陸を横断する駅伝なんてどうだろう」。これが「箱根駅伝70年史」(関東学生陸上競技連盟編)に書かれている箱根駅伝の始まりである。
 金栗氏は日本人で初めて五輪に出場したマラソン選手。大河ドラマの主人公にもなった。一二(明治四十五)年ストックホルム五輪に参加したが、体調不良で途中棄権した。帰国後、「どうしたら、世界に通用する選手を育てられるか」を考え、一度に多くの長距離走者を養成できる駅伝の活用を思いついた。
 なぜ、アメリカだったのか。このとき、金栗氏はすでに「下関−東京間」の超長距離走を実施済み。国内では話題性に欠けると判断した。「満州(中国東北部)−東京間」の案も出たが、より広大なアメリカを舞台にすれば「世界が驚く」と考えた。

ロッキー山脈に見立てた箱根の山々

 サンフランシスコを出発し、ロッキー山脈を越えて、ニューヨークへ至る壮大な行程。あまりに規格外のため、まずは国内で予選会を行おうということになった。
 では、具体的にどこを走るか。当初は三つの案があった。まず御三家ゆかりの地「東京−水戸間」が候補に挙がるが、コースが平たんすぎると除外。「東京−日光間」も検討されたが、道路の不備があると断念した。最後が「東京−箱根間」。ここなら、天下の険と歌われた箱根の山をロッキー山脈に見立てることができる。かくして、箱根駅伝は誕生した。
 記念すべき第一回は二〇(大正九)年二月十四、十五日。東京高等師範(現筑波大)、明治大、早稲田大、慶応大の四校が参加し、東京高師が優勝した。タイムは現代よりも四時間ほど遅い、十五時間五分十六秒だった。

東京国際大 横溝三郎総監督

 諸事情により、残念ながらアメリカ横断駅伝は実現することはなかったが、大会は残った。思いも受け継がれていった。第一回から百年。東京国際大・駅伝部総監督の横溝三郎さん(81)は「発想力のすごさ、実現に向けての努力。金栗さんは偉大な方だったと思います」と話す。
 横溝さんは中央大時代に四年連続で箱根駅伝に出場、史上最多の六連覇に貢献した。金栗さんと話したことはないが、金栗さんと親しかったベルリン五輪の男子一万メートル日本代表・村社(むらこそ)講平さん(故人)から誕生秘話を伝え聞き、夢の大きさに驚いたという。
 今は指導者として学生に夢を持つ大切さを伝えている横溝さんに「もし、アメリカ横断駅伝が実現していたら?」と尋ねてみた。すると、「いや、さすがにロッキー山脈は登れないですよ。厳しすぎます。三千五百メートル級の山々ですから。私だったら遠慮したいですね」と言って笑った。

◆抜け道探しや替え玉の逸話

 初期の箱根駅伝には笑い話のような逸話も多い。テレビやラジオで箱根駅伝の解説を務めた横溝さんは「大正時代には人力車の車夫を雇って走らせた大学があると聞いたことがあります。走るときに『ホイ』『ホイ』と掛け声をかけたのでバレてしまったとか」と教えてくれた。
 第1回はこんな話もある。島田輝男著の「日本列島駅伝史」によると、大会の前、出場4校はそれぞれ神奈川県内で合宿を行った。理由は近道探し。当時の箱根は山深く、抜け道や間道が多数あった。運営側の係員も少数で、少しでも有利な道がないかを必死に探したという。
 しかし、計画は意外な形で頓挫する。このときの往路は午後1時スタート。走者が5区に到着したのは日没後だった。そのため、「夜の山道は危険だ」と地元青年団が松明(たいまつ)をたいて要所に並ぶことに。これでは近道はできない。
 翌朝の復路。今度は雪が積もっており、近道をすると、足跡でバレてしまう。結局、近道をした選手はいなかったという。「泣いたり笑ったり、毎年ドラマが生まれる」と横溝さん。今回、関東学連はコロナ対策のため、沿道での観戦を控え、自宅での応援をお願いしている。
 文・谷野哲郎

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