<2021渋沢流 今に生きる心>(4)人と人、国超え理解を 「青い目の人形」交流 記録フィルム見つかる

2021年1月5日 07時20分

米国から贈られた「青い目の人形」を交えた、ひな祭りに参加する渋沢栄一(奥の右から2人目)。手前は記録フィルムの撮影者とみられる (渋沢史料館所蔵)

 悪化する日米の国民感情の改善を目指し、一九二七年に米国から日本の子どもたちへ贈られた青い目の人形。この活動に日本側の窓口として尽力した、渋沢栄一の姿を収めた貴重な記録フィルムが近年、見つかった。およそ百年前に草の根で人と人との相互理解の大切さを訴えた渋沢の思いは、自国第一主義が吹き荒れ、国家間の対立が激しい現代でも、民間交流に取り組む人々の中に息づいている。
 フィルムは二〇一八年、米シカゴで発見された。米国内で送別された人形が横浜港に船で到着した様子や、東京都内で開かれた歓迎会の様子などを約十分間の映像に編集。モノクロの無声映像だが、場面ごとに英語の字幕で内容が紹介されている。
 青い目の人形交流に詳しく、フィルムを鑑定した大妻女子大の是沢博昭教授によると、フィルムは、人形のお礼に日本側が贈った市松人形を米国内で巡回展示した際に上映されたとみられる。国内の文献などでフィルムが制作されたことは知られていたが、確認されていなかったという。

青い目の人形交流の意義を語る是沢博昭教授=さいたま市内で

 歓迎会で日米の子どもたち約千六百人を前に、渋沢があいさつするシーン。是沢教授は、渋沢の笑顔の裏側には、カリフォルニア州で日本人移民の排斥運動が激しくなり、一九二四年に排日移民法が成立したことへの挫折感があったとみる。未来を担う子どもたちには、国同士のわだかまりを超えて友好な関係を築いてほしい−。そんな思いを託した民間交流が実現し、将来への希望を見いだせた安堵(あんど)感からの笑みだったのではないか。是沢教授は「渋沢は、国同士が政治的に対立する中、人と人とが互いに理解し合うことの必要性を示した」と意義を語る。
 「お互いを知れば信用できる。疑心暗鬼を取り除くのが私たちの仕事」。五十年近く中国との交流活動を続けてきた、NPO法人「県日本中国友好協会」理事長の橋本清一さん(72)は力強く語る。同協会は日中国交正常化に先立つ一九五〇年の設立以来、中国について知ってもらおうと、物産展や中国語講座の開催、留学生支援などに取り組んできた。
 渋沢は著書「論語と算盤(そろばん)」で、当時の中国について「相提携せざるべからざる(しないわけにはいかない)国柄なり」などと記し、思いやりを持って臨み、互いに利することが必要だと説いた。橋本さんは、渋沢が中国への理解を深めていたことや、米国を含めた外交関係を重視していたことに関心を寄せる。

2011年8月、中国人留学生と交流する橋本清一理事長(右)=狭山市内で(橋本理事長提供)

 現実の日中間には、必ずしも良好な関係とは言えない時代もあった。特にこの十年は中国国内の反日デモや、新型コロナウイルスの感染拡大に絡む日本側の「中国たたき」など、逆風が絶えない。
 それでも「国と国は利害で動くから戦争が起こる。でも、目の前にいる親友に鉄砲は向けられない。憎しみを生まなければ戦争はできない」と橋本さん。人と人とが理解しあうことで平和な世界を築く−。その思いは、いつの時代も変わらないと確信している。 (飯田樹与)
<青い目の人形交流> 1924年に米国で日本移民を締め出す「排日移民法」が成立し、日米間の国民感情が悪化したことを受け、米国人宣教師シドニー・ギューリックは将来の友情交流を築くため、人形交流を両国に呼び掛けた。賛同した渋沢栄一は西洋人形約1万2000体の受け入れに尽力。答礼として日本からは58体の日本人形が米国に贈られた。青い目の人形は、太平洋戦争時には敵国の人形として多くが廃棄処分され、国内で300体余りしか残っていない。

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