<視点>昭和12年の早慶戦 8ミリカラー映像に浮かぶ人生の不条理 編集局次長・加古陽治

2021年1月12日 18時12分
 作家加賀乙彦さん(91)の父小木孝次さん(1902~77年)が撮影した戦前の映像のことを1月1日朝刊で紹介した。そこで詳しく紹介できなかった8ミリカラー映像に、1937(昭和12)年6月5日の早慶戦があった。早稲田が慶応を2対1で下したこの伝統の一戦をひもとくと、戦争の悲惨さと平和の持つ重みが浮かんできた。

慶応の攻撃。マウンドに立つのは早稲田のエース若原正蔵

 東京大学野球連盟(現一般財団法人東京六大学野球連盟)の同年の「野球年鑑」によると、この日は晴れて無風だった。先攻は慶応で、早稲田の先発は若原正蔵。通算勝利数歴代7位のエースだ。小木さんが写した神宮球場のスタンドには、鮮やかな着物姿の女性の姿もあった。
 対する慶応の先発は、中田武雄。兵庫・明石中時代に全国中学校大会の準決勝で中京商との延長25回を一人で投げきった伝説の左腕だ。試合は投手戦となり、延長11回、早稲田が4番呉明捷のサヨナラホームランで勝った。

早稲田の攻撃。マウンドに立つのは、明石中時代に全国中学校大会で延長25回を一人で投げきった伝説の左腕・中田武雄(慶応)

 翌々日両チームは再戦し、この時も6対4で早稲田が勝利。試合終了後に春のリーグ戦の優勝杯授与式があり、9勝1敗の明治に優勝杯が授与された。この時の記録を見ていて、おやと思った。「米国大使」からの表彰があったと記載されていたからだ。前年には早稲田が米国に遠征。生命保険会社の幹部社員だった小木さんも同じ年に欧米視察旅行に出かけ、米国を回った。次第に戦時色が濃くなりつつあったものの、まだ一般人が行き来できた時代だった。

神宮球場の観客席は超満員だった

 しかし、日本は徐々に戦争の泥沼に足を踏み入れていく。36年秋にはドイツとの間で日独防共協定を締結。試合の翌月には北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突し、日中戦争が始まる。戦争は長期化し41年12月、日本はついに対米英開戦に踏み切った。
 東京大学野球連盟も43(同18)年、国の要求で解散に追い込まれる。小木さんの映像の中で生き生きとプレーする若い選手たちも、相次いで戦地に送り込まれた。

青々とした神宮球場の外野の芝もカラーで残されていた

 あの日好投した慶応の中田もそうだった。陸軍に入営し、43年に南方戦線で亡くなった。中田の明石中時代の1年先輩で、同じ慶応の5番ライトだった楠本保は42年に応召。翌年中国で戦闘中、敵弾に倒れた。早稲田の6番レフト三好善次は陸軍に入隊し、グアム島で戦死した。

外野席に浮かぶW(早稲田)の人文字

 同じ試合に出た早稲田の若原や3番サード南村侑広(旧名・不可止)、7番捕手片岡博国、慶応の7番ショート宮崎要らは戦争を生き抜き、戦後プロ野球などで活躍した。中田や楠本らも戦争さえなければプロでスターになったかもしれない。人生の不条理を感じずにはいられない。
 30(昭和5)年から37(同12)年の小木さんの映像には、人々の笑顔があふれている。当たり前の暮らしがまだあった時代。古い映像を見ながら、今を生きる私たちの平和をかみしめる。

編集局次長・加古陽治

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