<よみがえる明治のドレス・4>大礼服の文様 バラから日本の菊へ

2021年1月21日 07時10分
 明治天皇の后(きさき)、昭憲(しょうけん)皇太后が新年拝賀の際に着用した宮廷ドレスの大礼服(マント・ド・クール)。現存している大聖寺(京都市)門跡と文化学園(渋谷区)、共立女子大学(千代田区)の両博物館が所蔵する三つを比較すると、刺しゅうの文様がバラから菊花へと変化したのが特徴の一つ。決して西洋化一辺倒ではなかった近代日本の横顔が垣間見えてきた。

大聖寺蔵の大礼服。文様はバラ

 「トレイン(引き裾)の刺しゅうが素晴らしい。菊の花弁や葉の形までよく観察して縫い上げるなど、非常に写実的で、立体感に富み、存在感があります」。共立女子大学博物館学芸員の川井結花子さんは、同館で所蔵する昭憲皇太后の大礼服の魅力について、こうアピールする。
 同博物館によると、この大礼服は一九九五年、同大OBで戦後日本の服飾界のパイオニア的存在だった原のぶ子さん(故人)から寄贈を受けた。寄贈資料などによれば、原さんは五八年、「服飾の研究資料にしてください」という竹田光子さん(旧竹田宮恒徳(つねよし)王妃)から受領した。「萌黄色天鵞絨(もえぎいろびろーど)菊花刺繍(ししゅう)大礼服 明治四五年一月一日」と記された等身大の桐(きり)箱に納められていた。博物館では、原さんの研究や箱書きの年月日などから、制作年代や昭憲皇太后の着用時期を〇六(明治三十九)年から一二年と推定している。
 文化学園服飾博物館蔵の大礼服の詳しい来歴は公表されていないが、「大きく膨らんだパフ・スリーブ、釣り鐘形のスカートなどの特徴」(同博物館ホームページ)から明治二十年代後半の制作としている。

ボディスとトレイン、スカートのすべてが菊花文様の文化学園服飾博物館蔵の大礼服

 大聖寺蔵を含む三つの大礼服は三メートルを超える長いトレインが共通点。トレインを付ける位置は腰から肩に移行したが、最も分かりやすい変化は、刺しゅうの文様がバラから菊花となった点だ。
 最も古い大聖寺蔵の大礼服は、豪華で立体的な刺しゅうで赤、黄色、ピンクのバラ文様で織り上げているが、文化学園蔵の大礼服はボディス(上衣)とスカート、トレインともに菊花の文様に統一されている。共立蔵はボディスとトレインが菊花で、スカートにバラのつぼみが描かれている。
 大聖寺蔵について、中世日本研究所(京都市)所長のモニカ・ベーテさんは「この大礼服がつくられたのは、西洋の国々に『日本は西洋と同等の国だ』と認められようとした時期で、西洋風のデザインを選んだのではないか」と推測する。
 西洋服飾史が専門の深井晃子さんは「バラは西洋のファッションに頻繁に登場するモチーフ。一方、日本のような菊は西洋にはなく、十九世紀末にフランスでジャポニスム(という日本熱)とともに流行するまで衣服のデザインとして登場することもなかった」と指摘。菊花の文様の採用は「日本というイメージの表象で、皇室とゆかりの深い菊が選ばれた」と見る。

ボディスとトレインが菊花文様の共立女子大博物館蔵の大礼服。スカートの文様はバラ

 外務省が一九三一年にまとめた諸外国の大礼服調査によると、駐日大使らの大礼服の刺しゅうの文様も記されていた。フランスのオリーブの枝、スイスのエーデルワイスの花などが一例。日大准教授の刑部芳則さん(日本近代史)は「(菊花の文様は)日本の特徴または特色を海外に示す目的だった。男子の皇族大礼服が菊花紋様、臣下の大礼服に桐唐草紋様を取り入れたのと同じだ」と解説する。
 「最初の大礼服はドイツに注文してそのまま受け入れた。次は、自国での制作を試みた。そして、その次のステップは全て自国で制作した」
 ベーテさんは、昭憲皇太后の大礼服がつくられる時期を三つの段階に区分。その上で、「バラ文様の大礼服は(独自製への)試行の段階のものでしょう。菊文様の大礼服は独自色の濃いものであり、菊を採用する動機があった。それは日本人のアイデンティティーだった」と指摘する。
 文・吉原康和/写真・横田信哉
 ◆紙面へのご意見、ご要望は「t-hatsu@tokyo-np.co.jp」へ。

関連キーワード

PR情報

TOKYO発の新着

記事一覧