縁食論 孤食と共食のあいだ 藤原辰史著

2021年1月24日 07時00分

◆誰とでもつながり合う
[評]玄田有史(東京大教授・労働経済学)

 コロナ前、居酒屋のカウンターで呑(の)んでいた。たまたま隣り合わせのご縁となった人から、美味(おい)しそうな肴(さかな)を「おひとつ、どうぞ」となった。だが、店の人からは「食べたければ注文して」と、きつくたしなめられる。さように縁と食を結ぶのは、案外難しい。
 それでも縁と食をゆるくつないだ「縁食」こそ、生きづらい世間を居心地よくすることにきっとつながると語りかけるのが、本書だ。孤独でさみしい孤食ではなく、共通を強制される共食でもない。いろいろなめぐりあわせのなかで、特別な目的も必要とせず、生きる根源である食を通じ、ただつながりあうのが縁食だ。その場所での関係も、強い共存や自存よりは、弱い並存くらいがちょうどいい。
 縁食の縁は、ご縁の縁と同時に縁側の縁、縁台の縁でもある。食を無償で供されるにしても「ついでに食べながら」程度の縁食なら、施しを受ける時のみじめさを感じなくてすむ。それはシングルマザーなど、市場経済の冷徹さに日々打ちひしがれている人々にもあたたかくてやさしい。
 今や各地で営まれる子ども食堂など、縁食は着実に広がりを見せてきた。そこに感染という嵐が吹き、縁食の空間でのやわらかなふれあいを遠ざけようとしている。けれども以前よりは多少広い間を保ちつつ、何か口にしながら「やれやれ」「なんとまあ」とホッとしあう縁食はしなやかに続いているはずだ。それは自助でも共助でも公助でもない、いわば縁助だ。福祉を含め公共部門は目的を定め、とかく等しく管理しようとする。枠組みからはじかれたものは見ないようにし、本人に任すしかない。縁食は行政にとって苦手な範囲の一つだろう。
 だとすればなにより大切なのは、誰もの根底にあるほっとけない気持ちと無理のない行動になる。縁食という示唆は、そんな市井の人々を勇気づけるにちがいない。食べることを縁として、家族でもない人々を信じられたり、なにかあれば誰でも「お互いさま」と支えあえる社会づくりをあきらめないで。そう励まされた気がした。
(ミシマ社・1870円)
 1976年生まれ。京都大准教授。農業史、食の思想史。『ナチスのキッチン』など。

◆もう1冊

藤原辰史著『食べるとはどういうことか』(農文協)

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