<再発見!伊豆学講座>田中郷と田中氏 伊豆の国三福 発祥の地

2021年1月24日 07時48分

龍源院にある脇田家の墓所=伊豆の国市三福で

 かつて、北伊豆の中央に「田中郷」があった。郷は村より大きなくくりの地域である。現在の伊豆の国市伊豆長岡地区、大仁地区が、ほぼその中に納まる。当地周辺を田方郡といった。「田方」は「田中」がなまったものとも考えられる。
 明治五(一八七二)年、現在の伊豆の国市三福で「脇田酒造店」(後の東洋醸造、現在は旭化成ファーマの事業所)を開業した脇田家の祖先は、新田義貞の弟脇屋義助の子、義治(一三二四〜一三九六年)と言われている。義治は建武二(一三三五)年十二月、竹ノ下(現小山町)の合戦に十三歳で初陣し、混乱の中で父の義助とはぐれたが、沈着な行動によって生き残ったことが「太平記」に記されている。
 脇田家文書によれば、義治は正平二十四(一三六九)年以後、出羽から武蔵、上野、信濃、遠江、駿河を経て伊豆に入り、三福の田中氏を頼ったという。土豪領主田中氏も源家と由緒の家であったので、その娘と結婚し、足利方の探索を逃れるため脇屋と田中の両姓を合わせて脇田と称し、左近と名乗ったという。
 脇田家の墓地は、旭化成ファーマの敷地内にあったが、平成十七(二〇〇五)年、菩提寺(ぼだいじ)である龍源院へ移転した。三基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)のうち、いずれかが初代義治といわれる。
 田中姓は、江戸時代の武家の系図集である「寛政重修諸家譜」のうちの岡野氏系図にも記載がある。それによると「もとは北条を称す、先祖より数代伊豆国田方郡狩野庄田中郷を領せしより、泰行に至り、北条改め田中を称し、融成(とおなり)(すけない、とも言う)の時板部岡、のち太閤秀吉により岡野を称す」とある。
 融成については「越中守・江雪斎、北条氏政の近臣板部岡能登守康雄の遺領及び与力の士等を与えられ田中を板部岡に改め岩付城(さいたま市岩槻区)の城主太田源五郎死去ののち、かの城を守る」とある。
 北条氏政は以前から織田信長と同盟しており、信長と氏政との婚約の交渉は融成が交渉役として甲府で取り決められた。融成は北条氏を代表し信長と交渉する立場にあり、氏政の信頼を得た側近であった。
 豊臣秀吉の小田原攻めののち、秀吉に仕え、岡野に改姓。関ケ原の戦いでは徳川家康に属し、小早川秀秋に通じ石田三成を攻略、慶長十四年に死去した。子孫は岡野と田中に分かれて幕府に従ったという。
 一方、別の説もある。「南豆風土誌」には「(板部岡融成は)下田出身、姓は平氏、祖善兵衛は田中氏を称し、明応二(一四九三)年、蛭島に戦死」と記されている。
 ただ、江戸幕府の作った正式系図に従えば、伊豆の国市三福が田中氏の発祥の地で、子孫として板部岡融成もその一人であった、ということができる。 (橋本敬之・伊豆学研究会理事長)

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