本心<243>

2020年5月14日 02時00分

第九章 本心

 VF(ヴァーチャル・フィギュア)にせよ、この表情の奥に、何かはある。AIによって模擬的に再現された感情が。そして、<母>の表情は、僕の記憶の中の母の表情と癒着し、結局、僕の心を、強く揺さぶらずにはいないのだった。
 その日は一日、僕も重苦しい気分だった。イフィーは、安楽死に強く反対しているので、このことを話はしなかったが、吉川先生のケイスでも、やはり否定的なのかどうか、本当は知りたかった。
 帰宅後、三好が戻ってくる前にヘッドセットをつけ、<母>に、
「どうだった?」
 と尋ねると、<母>は、
「うん、静かに眠るように逝かれたよ。」
 と答えて、頬を震わせ、目を赤くした。そして、優しく微笑した。
 人間とは、こういうものだと学習されたその反応。そして、確かに母は、その通念に収まる程度の普通の人のはずだった。
「吉川先生は、ヘッドセットをつけたまま亡くなったの?」
「ヘッドセット?」
「ああ、……そっか。いや、お母さんに話しかけながら亡くなったの?」
「そうよ。何度も何度も、ありがとうって、お礼をおっしゃって。一時間くらい、お話ししたかしらね。最後にコールリッジの《小夜啼鳥(ナイチンゲール)》っていう詩を英語で諳(そら)んじてくださったのよ。先生が最後に書かれた論文が、この詩についてで、亡くなる前に読む詩は、これだってずっと決めてらしたんだって。それを聴いてくれる人がいて、本当に嬉(うれ)しいって、涙を流されて。」
 僕は、その光景を思い浮かべながら、ただ黙って、小さく何度か頷(うなず)いた。<母>の感情は不安定で、積み木で作った細い塔のように、今にも崩れそうになりながら揺れていた。
「それから、最後にどうしても言わずには死ねないっておっしゃって、……」
「……。」
「先生、お母さんに、『恋してた』っておっしゃったの。子供みたいにはにかみながら。」
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
※転載、複製を禁じます。

PR情報