本心<240>

2020年5月11日 02時00分

第九章 本心

 イフィーは、破顔した三好に呼応するように、僕を振り向いて笑顔で見つめた。僕は、彼の前では、その誤解に忠実だったが、三好は内心、その買い被(かぶ)りを苦笑しているだろう。
 僕は、彼女が、僕の母の安楽死の願望に言及しないか気にした。僕はその話題を、イフィーと共有したくなかった。話せば、僕は自分の混乱を感情的になって露呈しかねなかった。そしてそれは、彼との関係に、深刻な亀裂を生じさせてしまうのかもしれない。
 しかし、あれほど、「あっちの世界」に憧れながら生きてきた三好は、ファンであり、金銭的に僕たちの生活を支援してくれているイフィーの機嫌を損ねることを、恐れていない風だった。――恐らくはそれだけでなく、彼を愛しているにも拘(かかわ)らず。
 「勇敢」なのは、僕ではなく、彼女だった。
「わたしは、本当に辛(つら)くなった時には、もう生きるのを止(や)められると思うと、安心できる。わかる、イフィー、そういう感覚の中で生きていくこと? その時に、自殺とか、恐(こわ)い手段を取らずに済むっていうのは、安心なのよ。――今、死にたいとか、そういうのじゃないの。わたしだって、死にたくない。怖いから。この宇宙の中で、たった一度だけ生まれた命だもの。だけど、……本当に自分でそう決めた時には、誰からも否定されたくない。わたしの考えを、否定する資格のある人、いないし。」
 イフィーは、愕然(がくぜん)とした目で、しばらく三好を見ていた。口許(くちもと)には、幾つか発せられそうな言葉の気配が感じられたが、どれもかたちにはなりきれないまま消えていった。
 三好は、静まり返ってしまったのを、気まずく感じた様子で、小首を傾(かし)げて、崩れた前髪を耳に掛けながら表情を和らげた。しかし、イフィーは、苦しそうなほどに思い詰めた顔のままで、
「僕は友人として、それでも止(と)めます。彩花さんが死ななくていい方法を一緒に考えます。」
 と言った。
(平野啓一郎・作、菅実花・画)
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